【左のポケット】その40「アフガニスタンの思い出」 長島義明

Posted on 2月 23, 2008

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平和だった頃のアフガニスタン
長島義明

アメリカ、イギリスがアフガニスタンを空爆しだしてから僕の睡眠不足が続いている。アフガニスタンの風景や人々、子供の顔が目に浮かんで眠れない。
子供達の誰もが笑顔に満ちていた。 それらは僕が1978年9月末から11月にかけてアフガニスタン各地を旅した時に目にした風景、出会った人々、子供達。 連日、テレビ、新聞で報道される地名、カブール、クンドゥス、マザリシャリフ、ヘラート、ジェララバード。次から次と走馬灯のように目に浮かぶ。
そのどれもが美しい。今、その美しさが悲しい。

一ヶ月間ほど、僕は英語もろくに話せないアフガニスタン人と2人、彼のボロ車で旅をした。 空路でまず到着した首都、カブール。
ホテルで謡ってくれた老人、中国の胡弓に似た楽器を奏でながら謡う歌はアフガニスタン民謡。旧市街のバザールは銀細工の店が多く、肉屋や米屋に混じって鉄砲を売る店もある。羊のカバブ(串焼き)を焼く香ばしい匂いが流れ、男達はチャイハナ(喫茶店)で茶をすすっていた。行き交う人はタジク人、ウズベク人、トルクメン人、に混じりモンゴル系、インド系、イラン系の人達、稀に目の青い人もいる。さすが、「シルクロードの十字路」と云われる国だけあって、様々な人種が入り交じっている。
どの店でも旅行者の僕に親切だった。お茶を飲んで行けと茶をすすめてくれる
。これからの旅、車で旅をしたかった、飛行機では田舎の町へは行けず、バスの旅では途中、写真を撮りたいと思っても止ってくれない。
幾台かの個人営業の運転手と貸し切りの交渉をするが言葉が上手く通じない。
また、30日間も家を留守にするのを受け入れる運転手がいなかった。
諦めかけていた時、少し英語のわかる人の良さそうな男と出会った、口ひげを生やしたその男は僕の旅に車と僕の運転手を引き受けるといってくれた。ただし、家族と別れる時間が必要なので3日後から旅に出る事になった。
条件は1日、10ドル、プラス食事代である。今思うとずいぶん安く引き受けてくれたと思う。舗装されていない道を行くのは結構疲れる、そんな時、トランクから石油コンロを出して茶を涌かし、たっぷりの砂糖を入れてすすめてくれる。

カブールからバーミヤンへ。
カブール郊外になると道は舗装されておらず、すぐ地道になり、岩の多い地肌の山を登って行く。ほとんど樹木は生えておらず、わずか草の緑があるていどの赤土だ
。出会う人は羊の群れを追う牧童ぐらいで、すれ違う車も少ない。
バーミアン近くになると澄んだ川が道の側に流れる景色になり、白樺の林が川の側に白い木肌を見せていた。秋も十月になると黄色く色づく葉も散り、箒状態の
林になっていた。バーミアンの宿はホテルと云うものではなく、モンゴルのパオ
を思わせるテント張りの建物だった。真っ白な新雪をいただいたヒンドゥクッシュの山々を背景に10件ほどのパオが立つている。それが、ホテル「バーミヤン」

翌朝、有名なバーミアンの大仏を見に行った。ホテルからバーミヤンの大仏までの道は空高くのびたポプラの木が1kmほど続く並木で朝の光を受け、斜めにのびた影が縞模様を描き、清々しく美しい道であった。
その日は運転手に休んでもらい一人で大仏を見に出かけた。ポプラ並木が途切れる頃、岩肌から突然大仏の姿が現れた。その顔は無惨に切り落されているが全身の大きさに圧倒される。その下で牛を引いた農夫が畑を耕している。のどかな景色だ。バーミアンは昔、この地を治めたモンゴルの汪、ヘブライの孫が殺害され、その復讐の為、全住民が殺害されると云う歴史を持っている。そして再び侵略してきたイスラムの手により大仏の顔は削り取られる。でも、僕が訪れたバーミヤンの村にはそのような血なまぐさい面影もない平和な村であった。
バーミヤンの村からクンドゥースに向かうべく僕たちはヒンドゥークッシュの山並みをオンボロで越えて行った。山道は初雪が30cmほど積もり、嶺は白く輝いている。途中、バンディ.アミールと云う美しく神秘的な湖に立ち寄った。伝説にこの湖に住む魚は全て片目だと云う。恋を引き裂かれたバーミヤンのお姫様が身投げをして、この伝説が生まれたらしい。
湖を後にしてさらに山道を行くと、男達が土を掘ってこしらえたカマドの上に大きな鉄鍋を置き料理をしている処に出くわした。近くに民家らしき物は見当たらない。大きいテントが一つ張ってある。
鍋にはお米に羊の肉のぶつ切りを入れ、岩塩だけの味付け、それを水で炊いていた。「どこから来たのか」男は僕に尋ねる。「日本から」僕は応える。
「モンゴル人か」、男達は日本と云う国を知らなかった。
「食べて行くか」思わぬ誘いだ。僕はよろこんでその好意を受けた。
アフガンでは古くから、旅人に食べ物を施す習慣があると云う。
料理はまことに豪快で素朴だが塩味が程よく、羊の肉もご飯も申し分無く美味しかった。長老達は食べた後の羊の骨を並べ、占いをする。吉か凶か。

食事をごちそうになり、別れる時、子供達が大勢見送りに来てくれた。
「また、ぜひこの村においでよ」皆楽しそうに手をふっている。
僕は彼等の写真を撮った。「この写真を届ける為、また、この村に来るよ。約束するよ」 僕もまた手を振り彼等と別れた。
今、僕はその時の写真を眺めている。あの時から30年と云う長い年月が経っている。未だにその約束を果たしていない。住所も定かでないヒンドゥークッシュ山中の小さな村。少年達は皆笑顔で手を振っている。僕は本当に彼等の写ったこの写真を持って再びアフガニスタンを訪れるつもりであった。その翌年、ソ連の侵攻が始まり、内戦が起き、アメリカとの戦争が続いている。実に29年間も平和な時がないのだ。いつ、彼等と交した約束を果たせる時が来るのだろうか。
旅は思い出を残し、先に進む。クンドゥースはまだ遠い。雪で覆われた山々をながめ車を走らせる。巨大な城の様な岩山の麓を赤い衣装の女達が数人歩いていた。こんな山の中をどこに行くのか、なかの一人の女性は子供をおぶっている。
まるで中世の宗教画を見ている様な光景だ。
長い下り坂の道を降りて、少し開けた盆地に出た。刈り取られた田は米を栽培していた稲田である。近くを流れる川から水を引き、水車を利用して脱穀している。昔の日本の田舎を思わせる光景だ。近くの村は黄土色の土壁むき出しの家が寄り添って立っていた。川を渡る橋も同じ土橋作りだ。
クンドゥースはアフガニスタンの北東部の町、空が広く、土地が平らになる。
その郊外では綿の栽培が盛んで、赤い衣装をまとった女達が綿の実をつんでいた。話しかけたが勿論、英語は通じない。何がおかしいのか、くすくす笑っているばかりだ。カメラを向けても拒否しない。
クンドゥースはサマルカンドやタシケントに通じる要所、古くシルクロードが盛んなころは中国の西安目指してラクダの商隊が通過した土地である。しかし、僕が想像するより小さな町であった。この町では昔と同じ様な商人宿、キャラバンサライに宿泊した。一階がチャイハナ(喫茶店)になっていて、二階が宿泊する大広間だ、ジュータンが敷かれた部屋に日本と同じような布団を敷いて雑魚寝する。
長い白髪の老人を囲んでターバンの男達は茶をすすり、真剣に老人の話を聞いていた。この国では老人は知恵者として尊敬される。夜にはランプが灯され、旅人の寝息が漏れ聞こえる。この宿では昔から変わらなく客をもてなしているようだ。朝食はチャイと焼きたてのパン、パンと云っても草蛙みたいに平べったい大きなパンだ。それにバターと蜂蜜がついてくる。

マザリシャリフはアフガニスタン北部最大の都会であり、僕が訪れた翌年にソ連軍が最初に侵入した町です。僕がこの町を訪れた頃は青いタイルが美しいモスクの前で数知れない真っ白な鳩が飛び交い、実に平和で美しい光景でした。純白の鳩は平和の象徴そのものに見えました。今もあの白い鳩はいるのだろうか。

モスクを訪れる女性達は全身を隠すブルカと云う衣装を纏っているが、足下にちらりと見える白く美しいレースのズボンを見せて、それなりにお洒落をしています。ブルカの色も白、黒、青、緑、黄色、赤と様々です。それに細かい襞がつけられており、歩くと優雅に揺れる姿が美しい。中にはどれほどの美人がいるか、一度素顔を見たいと思っても、それだけは不可能です。それがアフガニスタン女性のおきてです。何百年も続いている風習だからしかたありません。

マザリシャリフからイランの国境に近いヘラートの町まではずいぶんと長い距離がある。ひたすらに車を走らせたが5日もかかってしまった。

アフガニスタンと云う国を初めて意識したのは僕がパリを拠点として旅をしていた時に知り合った一人のスイス人の話からです。その国がいかに魅力在る国か、その歴史、風土、文化、遺跡など、その青年が語ってくれた。当時、ヨーロッパの若者達の間では、アフガニスタンは旅行先として、憧れの国だった。
古都、ヘラート。この都こそ、僕の旅の目的地だった。古くはアレキサンダー大王が侵略し、1383年にはモンゴル軍に破壊され、15世紀にチムール帝国の首都になり栄えた。今もその頃の面影を残す城壁の上に立つと、街が一望出来る。その城壁に座り、市場で買ったザクロを食べる。甘酸っぱい味が口中に広がり、城壁の下で売る、物売りたちの声がここまで聞こえてくる。ロバに積んだハミ(メロン)、ブドウにイチジク、ザクロにパン、それらは何処から運ばれて来るのだろうか。
日が暮れて夕闇が訪れる頃、ランプの灯が灯りだす。道行く女のブルカが揺れて、そのシルエットがとても優雅に見える。
この町の大道りには2mほどの溝が掘られ水が流れている。カレーズだ。オアシスの町として人工的に作られた昔からの川、かってペルシャやアラブの商人はラクダに多くの荷を積み、この町を訪れ、この川の水で足を洗い、ラクダに水を飲ましたに違いない。毎日、今でもこの川のそばに市が立つ。何百年そのままの姿で人は行き交う。夕食に入った食堂でカバブ(羊の串焼き)とアラック(ブドウから作った焼酎)を注文して外行く人々を眺めて過ごした。この町ではただぼんやりと古い歴史の中に自分の身を浸すだけで十分満足だった。

カブールからジェララバードに行く途中、コルムと云う小さな村がある、羊の群れを見張っている2人の少年が、退屈しのぎに木とゴムで出来たパチンコであそんでいた。なかなか上手だ。狙った的に良く当たる。その村がアメリカ軍の空爆を受け、ほとんどの住民が死んでしまった。結婚式の集まりをアルカイダの連中の集会と間違い、誤爆したらしい。と、新聞で読んだ。逃げ惑う村人を飛来した軍用ヘリコプターの上から機銃操作して殺害したとも書いていた。
その村でしりあった子供は無事だろうか。きっと、木とゴムで出来たパチンコで、村人を殺害したヘリコプターめがけ、小石を射ち続けたに違いない。
「ばかやろー、ばかやろー」と泣きながら。パチンコのゴムを力いっぱい引いて
射ち続けたに違いない。

翌日、僕はジェララバードの町からカイバル峠を行き、歩いて国境を越えパキスタンに入った。

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Author: 長島義明
Profile:日本及び世界の人々、風景を40年以上撮り続けるフリーの写真家。著書にアメリカで出版された「One World One People」 「One World One Child」、「阪神大震災」、がある。 写真展「平和だった頃のアフガニスタン」は日本各地で30回以上開催。アメリカ美術雑誌協会最優秀賞受賞
Data: 2008 年 2 月 23 日 at 10:33 AM

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