[いけばな/鋏の音 3] 花に想う   紫苑

Posted on 7月 13, 2007

ノウゼンカズラ

音楽の向こうに思い出のシーンが浮かぶことがある。
例えば、誰かとバーの止まり木でグラスを傾けていたときに聴いた曲が、突然耳に飛び込んできたりすると、当時のシチュエーションがそのまま鮮やかに浮かんできたりとか……。
余談であるけれど、今は亡き元夫と訪れた彼の行きつけのスナックで聴いた「珍島物語」は、イントロが流れるだけで今でも本当に鮮やかにその時のシーンが浮かぶのだった。
最近、その当時の写真が出てきて、不覚にもほろりと一粒こぼしてしまったわたし。
演歌は苦手なのに「珍島物語」だけには、特別の思い入れがあった。

さて、やはり花を見る時にも、同じようなシーンに遭遇することがある。
実家の庭には母の愛した花木が、母の手で雑然と植えられていた。
その中には一緒に植栽したものもあり、今でもその季節が訪れると、母を懐かしく思うことがある。
母は、物心ついてからというもの、いつも無言で四季の花に関わらせてくれた。
桜が咲けば弁当持参で花見に連れて行ってくれたし、ツツジだの石楠花(シャクナゲ)だの、自生している野や山に誘ってくれるのだった。
道端に咲く花の名を聞けば、ほとんどすべて答えてくれたものである。
草花を、動物を、自然をこよなく愛する母の元で、わたしは28年間過ごした。
だからわたしがいけばなにのめり込むまでに、大して時間はかからなかった。

わたしが学んだいけばなの技法の中に、写実と非写実というのがあった。
言葉通り、非写実は抽象的な技法で植物の出生を無視し、花は色の塊としてマッスで捉えたり、フォルムとして扱ったりと自由で縛りがない。
生まれて初めてチューリップの花弁を裏返したのも、この技法に出会ったときであった。
結局、技法として習得するにはしたけれど、あまり好きにはなれなかった。
非写実の場を踏めば踏むだけ、わたしは写実のいけばなを追及したくなった。
でも、そんな環境の中で、わたしが段々いけばなアートに傾注していったのは、きっと若気のいたりであったように思う。
アートを分かった振りがしたかったのだ。その証拠に当時のわたしは、オブジェ風にアレンジしたり、コラージュに興味をもったりして、自己満足を得ていた。
でも、心からそれらがわたしの心を打たなかったし、他人の作品や作風を見ても、感じるということはなかった。
やはり、自然を取り込んで凝縮した、古来のいけばな(といっても、わたしの流派は現代いけばなであったのだけれど)が、わたしの心の奥底では息づいていた。
そして年を重ねてゆくうちに、その気持ちはもっと顕著になった。

野に咲く花や、風に揺らぐ木々、それらを抱きかかえた大自然には、脱帽してしまう。
最近読んだ立原正秋著『冬のかたみに』の中に、いわゆるハイカラなものに惹かれなかった、という作者の心情を綴った箇所があったが、わたしはその気持ちがものすごく共感できた。
もとより立原正秋の場合は、育ちの良さや知識から来る本物で、わたしとは根幹が大きく異なるけれど、共感を覚えずにはいられなかった。

年と共に、母の気持ちがとてもよく分かるようになった。
気がつけば、母と同じ道を辿っている自分に、母が重なった。

画像は、落花したノウゼンカズラ。
鎌倉・光則寺の山門近くで撮った。
幼い頃、母と花を集めて糸でつなぎレイを作った懐かしい花である。
花の向こうに、母の笑顔が見えた。

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Author: 紫苑
Profile:大好きな職業は専業主婦。 普通の主婦で生涯を終えたかったのに、願いは叶わず二度目の独身中。 掃除をしたり洗濯をしたり、家事を終えた時の充足感は最高です。 現在、生活の為にOLをしているので、早起きをして家事を楽しんでいます。 そして家事の次に好きなことが、花と文章を書くことです。 そんな日々を綴った『紫苑の吐息』を応援してください。
Data: 2007 年 7 月 13 日 at 10:20 AM

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