アウトサイダー・アートの勧め

Posted on 1月 19, 2011

今、川口市の4つのギャラリーで「アートが生まれる場所」という展示をしています。1月23日の日曜日までです。
全国の障害者のアート工房の中でも筋金入り?の工房からのすぐれた作家の作品が一堂に会しています(川口市長がたいへんにアートの理解があるようです)。
すごい作品がたくさんありますが、すべて(たいがい?)無料で見られます。

「アートが生まれる場所」
http://www.kumalog.jp/recommend/2011_01_13_07.cfm

僕はこの4か所のうちの川口駅から徒歩8分のアトリアというところで展示の手伝いをしました。
展示の監督は中津川 浩章さんという現代美術家で、東浦和の『工房 集』というところで、ずっと障害者に美術の指導をしています。
僕もたいへん懇意にさせていただいている、というか、飲み友だちというか、機会あるごとに美術について語り合ったり、教えてもらったりしている方です。

アトリアの中でも、立体の展示は、重たい陶器などの現物をああでもないこうでもないと動かしながら決めたものです。もしアトリアに行く方がいたら、これに村松が関わっているのか、と思ってみてください♪

機会がある方はぜひこれを見ていただきたいのです。
そうしないと、この後に書くアウトサイダー・アートの総論は、実感としてわからないだろうと思います。

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さて、アウトサイダー・アートです。
最近は、フランス語でアール・ブリュット(生の芸術)と呼んだりします。起源やニュアンスは違うのでしょうが、日本での実態は同じなので、僕はどちらでもいいなと思っています。
障害者が関わっているので、差別的ではないか、と配慮して腰が引け出すとどこまでも名前を変えていきたくなってしまうでしょう。そういう配慮ってキリがないのです。
ジャンパーがいつのまにかブルゾンと呼ばれるようになっていたみたいな変化はあまり僕は敏感について行きたくないのです。
ネットで調べた限りでは、どちらの言葉も、障害者のアートという意味の他に、専門的な美術教育を受けていない者のアート、というより広汎な意味があります。
そういう意味では、僕が絵を描いても、陶器を作ってもアウトサイダー・アーティストなので、まあ、ライバルのようなものです。
ピカソは親友(マブダチ)、アウトサイダーはライバル、というのが僕の立場です。

さて、名称についてはそれくらいにして、中津川さんと親しくなって工房集に行ったり、集のアーティストたちの展示を見て、最初に感じたことは、「彼らも作家なんだな」ということでした。
それまでは、「障害がある人は特殊な感受性を持っているようだから、障害のない人と比べたらズルいのかな」くらいに思っていたのです。

けれども、彼らの作品の現物を見ているうちに、そういう分け隔てする感覚が薄れてきたのです。

優れた作品は優れた作品でしかありません。彼らの中でも才能のあるなしもあるし、努力の量もあります。
描き続けていくうちに、より本質に近づき、洗練されていく面もあります。

彼らが特殊な感受性を持っていると思っていたと書きましたが、じつは感受性自体は同じなのです。

何が違うかというと、(以下の文は僕の少ない経験から観察し総合するところです。若干の例外があっても勘弁してください)こだわりですね。
関心のレンジが狭いのです。おなじ種類の絵を何枚もずっと描き続けます。
そして、それに倦むということがありません。
僕もA4ほどの板に虫の絵を細かく何百もぎっしりと描いたものを買いましたが、最初の虫も最後の虫も、同じテンション、同じモチベーションで描いているのです。
常人(こういう語彙も避けたくないのです)であれば、絶対に飽きてしまいます。それはどういうことかというと、虫を描くというのが意味になってしまうのです。
途中で「まだまだたくさん描かなければ……」と思うと、僕たちであれば、自動的に省略モードに入って、ペンの速度が速くなったり、線が乱暴になったりしてしまいます。
また作品として全体を眺め渡して、構成を考えたり、違うやり方を考えたりもします。
芸術というのは、言葉的な意味を超えるところに存在するのですが、そのような効率を考えたモードになったときに、意味が入り込んでしまいます。
なぜなら、効率というのは意味だからです。

構成ということをいいましたが、彼らには作品意識というものも当面ありません。

できあがりをああしようこうしようと考えていません。ただ描き始めてあるところで描き終わります。

ところが自然にその中の空間が整っていき、作品としてすごくいい感じになっていくのです。

こういうのが絵なんだ、美術なんだ、作品なんだ、という概念があってそれに似せるというところがないので意味にとらわれることがないのです。

美大の学生さんの作品にはよく、「コレってソレっぽくない?」と聞かれているような気にさせるものがありますが、そういのは、皆無なわけです。

そういう意味のくびきから解放された世界に、個性や才能の花が開くわけです。

彼らはおおむね一つの傾向の作品を作り続けますから、そのテクニックは洗練され、高度に習熟していきます。
テクニックといっても、その作品を作るためのテクニックであって、汎用性はありません。自分でやり続けることによって次第に洗練されるのです。

日本の美術の専門教育は、デッサンというすべて一律の西洋絵画の技術を身につけてから、それぞれの個性を開花させようとするのですが、僕は純粋な芸術という観点からいうと、それはおかしいだろう、と思っています。
しかし、そのことは他の原稿に書いたと思うので、ここには書きません。

まあ、論より証拠、この機会にぜひ見てください。
僕が何を言っているか、一目瞭然にわかるはずです。

美しいものにたくさん出会えます。

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Author: 村松 恒平
Profile:村松恒平 1954年東京生まれ。【DRAGON ART CREATOR'S REVIEW】編集人。編集者、ライター、芸術家。著書に『プロ編集者による 文章上達スクール』シリーズ(メタブレーン)など。面白いプロジェクトや、お仕事募集中!
Data: 2011 年 1 月 19 日 at 12:21 PM

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