倉重光則 不確定正方形 ある、からいるへ  Yu Ohkawa

Posted on 3月 14, 2009

“不確定正方形 撮影 洲崎一志”

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我々は対象を見ること、知ることに慣れている。だが倉重光則氏の作品を前にした私は驚くべきことに作品が対象であることを忘れていた。

ギャラリー現で行われた今回の展覧会は照明のない画廊の壁に正方形に投影された絵画的な明滅する光と床近くに這わされたネオン管、そして床の鉄板から構成されている。

 

まず作品が対象的でないことを論じる前にまず明滅する光を知覚した私の記述から始めたいと思う。最初明滅する光を見ていた私は他の誰もがそう感じるように目がチカチカして何も分からなかった。しかし、倉重氏に作品の説明をしてもらい、意識が耳と頭に集中し始め光を凝視するのを止めた時、作品である不確定正方形(光)が変化を見せ始めた。

 不確定正方形は私の中に沁みてきて私にとって内でも外でもない感覚が生まれてきた。また不確定正方形は私の中で発光するという現象よりも存在として支持体である壁から浮き上がり、そこにあるものとしての佇まいを見せてきた。だが一方でその存在は支持体である壁に対する触覚がないままなので地に対する図という慣れ親しんだ認識を得ることは出来ず、私の中での在るという感覚は宙吊りにされてしまった。その宙吊りになった感覚を補足しようと足元を確かめるように私は床一面に敷いてある鉄板に目をやった。しかしここでも異変が起こった。加工を施されていない生の鉄板は質量を失ったままでなおかつそこに存在しているのである。不確定正方形が放つ明滅している白い光を受けながら鉄板は知覚の場所性を失いながら私の前に現前している。

 

私は倉重氏が作った空間に佇みながらインスタレーションにありがちな包まれる感覚でもない、かといって対象を認識する能力も奪われたままそこに立っていた。不確定正方形は我々に何を示そうとしているのか。

 私は自宅で部屋のスイッチを点けたり消したりして不確定正方形を真似て部屋の様子を観察して見た。すると部屋にあるものはその質量を奪われボーっとした表情を見せだした。これはまた、目をパチパチさせながら物を見ると似たような効果を生み出す。

しかし、倉重氏の不確定正方形は空間全体が明滅するわけではなくあくまで平面としての正方形に限られている。確かに不確定正方形によって照らされる空間内の事物は明滅効果によって質量を失い実体感を失うが、主体である不確定正方形はその存在を示しながら、我々に対して対象であることを拒む。

対象とは通常認識し、私の内に一部を取り込みそこにあることを理解することである。しかし不確定正方形は正方形としての形象をそこに持ちながらも明滅しつつ白い光を我々に向けているため、在ることは分かりながらも明滅によって眼差しが届かないため対象として凝視ができない。

そこで対象として認識を止めると空間全体が感じられてきて私の身体が戻ってくる。ここにいると。最初は落ち着かなかった空間も対象が在るという意識から、今ここにいるという意識に変わった時から倉重氏の空間が全く別の空間に変わっていったのである。

 

対象を認識することを忘れた私はもう一つのモチーフである赤いネオン管に目をやった。ここでもそれが何を意味するかという意識を離れ現前している現象に意識を注いでみた。すると赤いネオン管は床近くに設置してあるため床の鉄板に反射してぼーっと光っている。作品という実体に対し虚構性が感じられそれが鉄板という実在感のあるものに反射しているため私の中で虚と実が混じり合う。ネオン管はまた不確定正方形の一つの角にも這わせてあるが、これは他のネオン管が画廊の壁と床を強調しているため、その両方のネオン管を一緒に見ている鑑賞者にとっては不確定正方形内(虚空間)の空間と画廊という現実空間が混じることになる。したがってネオン管は虚と実の間を繋ぐバイパスのような役目を果たしているが、虚と実を分けることに慣れている私たちにとっては戸惑うばかりである。ここでも倉重氏は作品の主体をずらし、全てが関係の中で提示されている。

ここで、では不確定正方形を含む空間はどこへ我々を導こうとしているのであろうかという疑問がよぎる。このレビューのタイトルに書いた、あるからいるへという意識の変化が鍵となるように思える。

我々は通常絵画という平面を虚構に押しやり安心してその外側である実空間から見ている。そして私ではない画家が主体となって作品を私に差し出す。そこには安定した構図がある。しかし不確定正方形が差し出す空間は作者という主体を失わせ、すべてが現象として還元され、その現象が張り巡らされた鏡のように私が意識するすべてのものがすべてのものに映りこみ、反射し虚と実、内と外という区別を無くし私の前に現前する。

そこで作品を見るということを諦め、眺めるという意識に変えると不思議と空間は私の中へ染み込み、作品がある、から私がここにいるという意識に変わり、どこでもないどこかにいるような気分になりリラックスする。倉重氏は何度も会場を訪れているが、その時画廊から一旦外に出るととても町が静かに感じられると語っていた。

不確定正方形を巡る心の旅は作品が対象であることを止め非対象的な、全てのものが溶け合う世界を私たちに提示しているのではないだろうか。

 しかし依然として不確定正方形は不可知な存在として私の前に現前していることも書いておきたい。                                                                                                                     

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全光榮(チョンクァンヨン)展  Tsunabuchi

Posted on 3月 10, 2009

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森美術館でおこなわれている『チャロー!インディア』を見て帰ろうとしたが、隣でやっていた『全光榮展』も同じチケットで見られると知り、ついでだからと入っていった。この展示にはまったく裏切られた。まったく期待してなかったし、全光榮という人も知らなかったし、入口のポスターもあまり魅力的には見えなかったので入らずに帰ろうかとも思った。だけど「ここまで来たんだし」と思い、ついで以外のなにものも感じずにフラフラと入ってしまった。

それが間違いだった。完全に魅了された。魂を持っていかれた。

展示室に入る前にこんな文章が置かれていた。

「懐かしさを包み込む」

私にとって人生とは染みるような懐かしさだった。

朝、目が覚めると理由もなく涙が流れたりする。

どうしてなのか、なぜすべてのものが懐かしいのか、私はわからない。

人々は私を背丈が低い東洋人の作家ということで記憶しているが、私の懐かしさの背丈は他人が見えないあの高いところまで伸びているかもしれない。

見えない私の懐かしさは、時には悲しい愛に、時には苦痛を伴う創作活動に、情熱の涙にその姿を変えた。

そのように私を熾烈な人生へと果てしなく駆り立てた懐かしさを恨んだりもした。

しかし、そんな懐かしさがなかったら私の人生は平穏だったかもしれないが空しかっただろう。

この懐かしさがあればこそその懐かしさを忘れるため全力を尽くして作業へ没頭した。しかし忘れることができず、さらなる懐かしさで、私は倒れてもまた起きあがって走った。

私の深い懐かしさと、また誰かの傷と懐かしさを包む心で数千、数万個の三角形を韓紙のポジャギ(風呂敷)で包んで結んできた。

そんな私たちの痛みを癒して上げたいとの想いが私の作品根幹であり 緻密な執拗さ途方もない努力を要求する特有の作業過程を支えてくれた力だった。

数千万回の三角形のポジャギを包む過程でへとへとになっても、それぞれのポジャギへ私の暖かい温もりを盛り込もうとした。

その真心と温もりで誰かの懐かしさを包んであげられることができると信じ、私のAggregationは休むことなく続くことだろう。

                 ―-全光榮

この詩のような紹介文を読んで期待感が生まれた。いったいこの先に何があるのだろうかと。

しかし、最初の展示スペースにはピンと来なかった。布を染めたような抽象的な作品には「こりゃ期待はずれだったかも」としか思えなかった。そして次の展示スペースへと進む。

そこにあったのは森だった。ひとつの壁に森が掛けられていた。

森の絵があったのではない。森のオブジェクトがあったのでもない。森とは似ても似つかぬ形の森があったのだ。

漢字やハングル文字が印刷された紙(韓紙(ハンジ))でさまざまな大きさの三角形を包み込み、その三角形が、何千とも何万とも数え切れないその繰り返しが、あたかも自然物が構築されたかのようにきれいに並べられ、ひしめきあい、共存し、全体で遠近感やデザインを伝えている。

木の葉はひとつひとつとても似ている形をしている。しかし、どれひとつとして同じものがない。同様に、そこを形作っている三角形の断片はどのひとつも同じものがないが、ひとつひとつが同じような要素の無限の繰り返しになっている。そこにあるのは自然と同じフラクタルな繰り返しと、作者のどこから来ているのか計り知れない情念だった。ひとつひとつの果てることのない繰り返しを、作者はまるで自然の造形のように、あるデサインへと練り上げている。この様相はとても写真ではわかり得ない。

森の遠景は緑の固まりだ。近づくにつれ木の形がわかるようになる。そしてもっと近づくことでやっと枝がわかり、もっと近づいて葉がわかる。そこにあった作品も遠くから見ると全体のデザインがあるだけだ。ところが少し近づくとその構成要素が何か特別なものに見えてきて、さらに近づくとやっと三角形がわかり、もっと近づくことでそこに書かれている文字を認識する。

全光榮展ホームページ

はじめてガムランを聞いたときのような肌寒さを感じた。ひとつ間違えると自分がどこか別の世界に持って行かれそうな、そんな感覚。この感覚を投げかけてくる作品が、そのあとずっと続いていく。

形の組み合わせも妙なるものだが、その三角形の染色と配列、場所毎に異なる大きさと組み合わせ方に、僕はブナの森や杉の森や、イチョウの森、松の森といろんな森を引きづり回される。

平面の作品だけでなく、立体物もあり、全光榮という個人によって生み出された様々な森に、完全に酔ってしまった。

展示の途中で全光榮氏のインタビューがビデオで流されていた。そこで全氏は画家になった頃の苦労について話していた。そのなかでたった一枚手放さないでいる作品について語っていた。ほとんどが赤で覆われたその抽象画は、僕にはあまり名作には見えなかった。バリ島の露天で売られている抽象画に似ているとさえ思ってしまった。この作品のどこにアートで必要とされる深さを見出すべきか、僕には理解できなかった。だけど全氏は行き詰まったとき、その作品を見ることで、初期の苦しかった頃を思い出すのだそうだ。そしてそれを新しい作品の糧とする。きっとあの作品は全氏にとって、創作の世界へ入る鍵なのだろう。あの鍵となる作品から、どのようにしてあの森を思わせる、深い、情念に満ちた、そして全氏が語るように懐かしさをも思わせる、見るものを別の世界に誘うような作品へと飛翔(リープ)するのか、その秘密を知りたい。

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