「工房集と仲間たち展」はパンドラの箱 村松恒平
Posted on 2月 10, 2009
工房集は、2002年から活動している障害者たちのアートスタジオ。
そこのアーティストたちの展示。
今の時代、こんなことを正直に言ったらいけないのかもしれないが、障害者というと「カワイソウ」な人たち、という意識はやっぱり僕の中のどこかにあるんだ。
でも、彼らの作品をしばらく観ていると、そのうちにある面で本当に「カワイソウ」なのは僕たちのほうではないか、とすら思えてくるような逆転が起きる。
無意識との交流の量において、それに費やす時間において、贅沢なのは彼らで、「カワイソウ」なのは僕らだ。
でも、ここで僕たち、というと、健常者、健常者でアーティストを目指していたりする人を漠然と指してしまうわけで、そこにくっきりと線を引いたと言われるだろう。
では、そんな線があるのか、と言われれば、あるといえばあるし、ないといえばない。
飛行機から赤道や日付変更線を見下ろしても、そこには何の線もありはしない。だけど、その言葉や概念はあるし、そのように概念化している有用性だって当然あるわけなのだ。
だけれども、赤道で海や大地が分かれていたりしないように僕ら(彼ら)はつながっているのだ。
こんな但し書きはおまじないのようなものだ。
こんなことで言葉でこんがらかっているよりは、現物を見たほうが思わぬハッピーやラッキーと出会うだろう。
出会った僕の印象は、ダイヤモンドの原石がごろんごろん。
その無造作な(といっても、背後にもちろんいろいろな努力や個別の物語があるのだろうが)ごろごろ感がすごかった。
これは開けた途端に宝石も災厄も、いろいろなものが飛び出してくるパンドラの箱なのだ。
現代美術をやっている多くの人にとっては、これはあまり大きく開けはなってほしくない災厄の箱かもしれない。だって、生命力が溢れているんだもの。
自分で自分の首を絞めて窒息しそうになって遊んでいる連中は、ますます息苦しくなってしまうだろうさ。
そんなヤツらはどうだっていい。もっと大きく箱を開け放ってしまっても僕は全然かまわない。
この宝の山に出会いたまえ。
美術を志す人は、正しくうちのめされるがいい。
デザインをしている人は、色や形、エネルギーを盗みだせ(インスパイアっていうの?)。
お金がある人は、まことにすばらしいインテリアとしての美術品を現代美術の100分の1以下の値段で買うべきだ。
もし、広い白い壁のある家ならば、作品は本当にきれいなオーラを放つだろう。
そうして、誰の作品? と聞かれたら正体を隠して相手の反応を見るのも楽しいだろう。
もっとお金がある人は、好きな作家の作品を買い占めたっていい。今はまだ投資対象としてもすごく魅力的だ。
そんなふうにみんなが目の色を変える日は遠くないだろう。
だって、この作品、海外だったら飛ぶように売れると思うもの。
もうパンドラの箱は開きかけている。
誰にも閉じることなんかできないのさ。
写真1 閉じて施錠された箱が二つ見える。これは秘密だが、その中には作家の好きな音楽を入れたテープが入っている、という。
写真2 1面に描かれているのは虫。ただ描かれただけではなく、この中に時間の経過と物語が秘められているという。左上の売約済みマークは、僕のもの♪
写真3 僕が見るところ、こういう動機をキャッチするためには、意識的でありすぎてはいけないのだ。
(写真提供はすべて中津川 浩章氏)
「工房集と仲間たち展」
開催中2月25日まで! 1時間くらいは十分楽しめます。
http://www.makiimasaru.com/mmfa/exhibition/2009/0206/index.html
Filed Under 展覧会 | Leave a Comment
雪解けの河(1) Issey
Posted on 2月 10, 2009
雄大なアラスカの山々から流れ出す雪解けの川の水は冷たい。
Filed Under 絵画 | Leave a Comment
『加山又造展』 様式化する才能 村松恒平
Posted on 2月 3, 2009
「なんという堅固な表面だろう。
加山又造、という偉大な表面は僕の視線をはね返す」
2004年まで存命であったこの大画家の生きた歴史について僕は何も知らない。
しかし、名前くらいは聞いたことがある。
その印象は次のようなものだ。
*日本画家として大家であるらしいこと。
*金や銀や赤をあざやかに使う。
*華やかで誰にも好かれる大胆でわかりやすい作品群。
作品はどこかで一つ二つ見たことがあったが、個展は初体験である。そんな作家を見て、ヘタうま大好きの僕は何を思うだろうか?
【いざ会場へ】
展覧会場に入ると、上記の加山又造ブランドの印象を裏打ちする大作が3点、ドンと一発かましてある。
特に正面はうねる銀色の波に浮かぶ銀の月。
ポップだけれど、伝統的で、華麗でありながらしっかりとした強さがある。
あまりに完成度が高すぎて、見ているほうは、「はぁ」とため息をつきながら素直に感心するより手がない。若いときの僕なら権威的なものを感じて本能的に反撥したであろう。
それが冒頭の「なんという堅固な表面だろう」という感想だった。
展示の第一章は動物。これが初期作品だが、様式化する志向と手法はもう始まっている。まだしも作家が作品へアプローチする動機をとらえやすい作品群ではあるが、作品の完成度にはすでに全然若描きらしいブレがない。
直観的でありながら、考え抜かれいて、作品のすみずみまで作家の意志が行き渡っている。若い作家にありがちな「こんなものでいいか」とよくわからないままに投げ出したという部分がない。
構想から、仕上げまで莫大な時間とエネルギーがかかっていると思うが、自分が納得するまで決して作品を手放さない画家だっただろう。その納得できるレベルの高さと、それを実現できる技量、才能、そして志がスケールを大きくしている。
才能天分、発想、構図、技法、ていねいさ、完璧主義、凝り性、採点すればオールAだろう。
僕はその奧にあるものが見たい、と目を凝らすけれども、太鼓をいくら叩いても、『加山又造』という完成した音しか鳴らない。
正体が見えないスタイルは音楽でいうと、井上陽水を思い出す。陽水もデビュー当時、心情を垂れ流す四畳半フォークやセンチメンタルな歌が流行るまっただ中で、ひとり、センチメンタルなようで、冗談とも取れるようなレトリカルでまったく正体を見せない歌を歌い続けてきた。
その歌はわかりやすく大衆的でありながら、どこか空虚であるから、かえっていつまでも腐らない。正体なんてものはあるのかないのかわからない。
表面にすべて現しているのだから、それ以上のものはない、と本人はいうだろう。
ヘタな人間は、歌でも絵でもなけなしの肉声を晒すしかないのだから、こういうタイプは憎たらしいモノである。
僕は加山又造という巨大な壁に手をつきながら、どこかに侵入経路はないかと探し続けた。そして、ふと、お得意の銀の波濤を見ていると、それが均一な線でないのに気づいた。
線と線の隙間が均一ではなく、線の太さも均一ではない。線に筆をついだ後も見える。それに気づいて、入り口の大作に戻ってみると、やはり同様に機械的に均等に引かれた線ではなくて、どこか安心したのである。
波濤を均等で機械的に見ていたのは、僕の眼と頭脳であって、加山又造はそのように線を引く必要を感じていなかった。あるいは、わざとそのような隙を残したのだろう。
音楽をコンピュータで打ち込むときに、ドラムは意図的にわずかにタイミングをずらさないと人間らしく聞こえない、と聞いたことがある。加山又造の能力と集中力を持ってすれば、もっと均等な線も引けたであろう。しかし、そうしないほうがいい、ということを加山は知っていたのだろう。
加山又造の展覧会に行って、人はどこを見るのだろう?
僕はそんなケチ臭いところをしみじみと見ていた。
もちろん、ほかのスゴいところだって見たけどね。
【様式化とは何か?】
加山又造の才能の最も偉大なところは、様式化する力にある。「祖父は絵師、父は京都西陣の和装図案家」というから、様式化するセンスというものが血肉化しているのである。
様式化とは何か、といえば、この場合2次元化する方法論である。
絵というものは、そもそも2次元なのであるから、あらゆる絵が2次元化されているのであるが、その方法にさまざまな特徴がある。
西洋絵画の場合は、遠近法というものに基づいてなんとか2次元の中に3次元を再現しようとした。
2次元でもこれだけ3次元で見えている視覚というものを再現できる、ということを主張しているのである。
しかし、加山又造の2次元は、3次元に対してそのような劣等感を持っていない。
3次元は単なる現実であり、それ以上の価値はない。
しかし、それを無理矢理に2次元に押しつぶしてみると、そこに生じるのは虚構であり、それが美的虚構である以上、3次元より優越しているという自信に満ちているのである。
虚構は現実に従属するのではなく、現実を素材にし、バネにして、異世界を作り出す。
星や月、海や空、大地や花、それを加山又造というプレス機でつぶすと、そこからはみ出ようとするモノやエネルギーたちは、さまさざまなシンボリックな色や線、記号となって噴出するのだ。
そのことの祝祭性が金や銀の特別な色の鮮やかさの中に定着されている。
![]()
【印象に残った作品、つまらなかった作品】
すごい作品はたくさんあるけれども、僕の印象に強く残ったのは、『奧入瀬』と『牡丹』。残念ながら2点とも使用可能な図版がない。
それだけ多くの見どころのある展覧会であり、この2点はたまたま僕の関心にヒットしたに過ぎないかもしれない。
『奧入瀬』は、横長の長大な屏風の右端から川が画面中央に向かって溢れるように流れだし、左端へと消えていく。屏風絵として初期の作品のようだが、この瀬を走る水の姿が千変万化して、まるで生きているようだ。
上流においては写実的であった水が、下流に向かって様式的な表現になっていく。
様式化の過渡的な部分がたいへんよくわかる。
この絵は好きだなあ。
『牡丹』は、遠近感を墨の濃淡であらわした作品。
黒とピンクががった白の大輪の牡丹が書かれて背後に、ほとんど墨のような色調で牡丹の葉が描かれている。
牡丹の葉は、花に近い前面のものはくっきりと描かれているが、奧まるほど靄がかかったようにぼやけていき、すぐにフェイドアウトしてしまう。
濃淡による独特の遠近法である。
こういう手法を開発するだけでなく、軽々とその最高峰まで仕上げてしまうところが凄い。
逆につまらなかったのは、裸体画。
得意の様式化の力が女性の裸体に対しては働かなかったように見える。
女性は一昔前のモデル顔で、陰毛は描かれているが、僕にとっては少しもセクシーではない。
女性のセクシーさや、生命力を描かないで、なぜ裸体を描きたかったのだろう?
あるいは人気画家としての地位があまり生々しい女体を描くことをためらわせたのか?
様式化するでもなく、ワイルドに描くでもなく、この画家には珍しく、非常に中途半端なところで苦しんでいるように見える。
本人が生きていたら、どういうつもりだったのか聞いてみたいところだ。
背景とか裸体以外の部分はすごいのですけどね。
それから、ペットっぽい猫。工芸品の意匠もつまらなかった。
工芸品、あまり欲しくならない。
しかし、欲しくないのは僕だけであって、こういうの見た途端に「はぁぁ」とため息をつき、売っているものなら買ってしまうおば様層、というのが僕の知らないどこかにいるような気がする。
なんか頭に「三越の外商部」という言葉が浮かぶ。
たぶん、僕なんかよりずっと加山又造がストライクゾーンな人たちがどこかに大量にいるに違いない。
もっと「正統かつ本流」風な人たち。
加山又造という人は、開拓者であり、冒険家であったといえると思う。
あまりに能力が高いために、つねに自分に難しい要求をつきつけ続けないと、自己模倣に陥ってしまう。
だから、いつも新しい領域に意欲を持っていたのだろう。
そして、あまりに様式化する力が強すぎるから、冒険であり開拓であったことは、世に出るとあっという間にオーソドクスに見えてしまうのだろう。
こういう大きな人を論じることは難しい。
僕が論じたところで世の中の加山又造の評価は、上がりも下がりもしない。
蟷螂の斧、というより、蟻が象の背中で鼻歌を唄っているという気分なのである。
Filed Under 展覧会 | Leave a Comment
夕焼けの白く輝く滝 Iseey
Posted on 2月 3, 2009
Filed Under 絵画 | Leave a Comment

