美術の決闘!
Posted on 7月 29, 2008
美術レビューの(勝手に)日本一を決める決闘です。
『とに~とムラマツの美術の決闘 タイマンレビュー』
http://taiman.ryukoart.com/
第一回は『静物画の秘密』展を扱っています。
(僕のは【DRAGON ART】に載せたものと同一です)
白熱したデッドヒート中です。
皆様も公正なる一票を投じて盛り上げてくだされば幸いです。
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エミリーに打ち砕かれてしまった。 nakatsugawa
Posted on 7月 26, 2008
エミリーに打ち砕かれてしまった。
六本木の新国立美術館でエミリー・ウングアレー展を見て、いままでアート、特に絵画について考えてきたことが試され、壊され、確認された感覚だった。それは絵画とは何であるかというきわめて現代的な問いに関することだ。
エミリー・ウングワレーはオーストラリアを代表する画家で、1910年頃生まれ、96年に亡くなったが、画家として活動したのは88年から96年に亡くなるまでだから、わずか8年間だけだ。その間に3千点とも4千点ともいわれる作品を残した。描きはじめたのが76歳位からというから驚きだ。年をだいぶとってから描きはじめたというと、アメリカのおばあちゃん画家グランマ・モーゼスなど素朴派の画家達を連想するかもしれないがエミリーはちょっと違う。彼女の絵画はもっと深くもっと広い。
エミリーはオーストラリアの先住民族アボリジニで、砂漠地帯で生活しアボリジニの伝統的な生活をし、儀礼の為のボディペインティングや砂絵の制作をしていたという。そんなエミリーがオーストラリアの教育プログラムが契機となり、ボディペインティングや砂絵から、キャンバスに絵筆という近代的芸術の方法を学び表現することとなった。それが、彼女の神がかり的ともいえる制作の始まりだった。
以前,J・ポロックについてこんな意味の事を書いた。アメリカ人であるJ・ポロックはヨーロッパ的近代を乗り越えようともがき苦しんだ。絵画の新たな可能性を開くためにネイティブアメリカンの砂絵などの呪術性を画面に取り込もうとしたり、そのつながりで、ユング心理学の共同性無意識というシンボリックで普遍的なイメージを追い求めた。それは現代人が失ってしまった原始の感覚、(日本でいえば縄文人の持っていたであろう感覚)を個人でとりもどし、かたちにしようとした。そしてその行為はポロックにとって決して絵画制作の問題だけでなく、人間とは何か、絵画とは何かを問う、まさしく命がけの問いだった。そして、J・ポロックはその不可能性に突き当たった(絵画的にはイメージは消え、アクションと物質性に還元された)。そしてその突き当たりの場所からアメリカの現代アートが始まることとなった。
で、エミリーだ。彼女の作品はそのようなポロックが成そうとしたことを軽々と達成してしまった。それどころかそれを乗り越えてしまった。アトリエ代わりの野外でタバコをくわえながら鼻歌を歌いながら。
エミリーの作品を見ているとポロックの他にもブライス・マーデン、草間弥生、瑛九など、何人ものアメリカのモダニズムのアーティストやそれに影響を受けたアーティストの作品との類似性が感じられる。そう、不思議なことに似ているのだ。一方は76歳で絵筆を取り、ほとんど美術の専門教育は受けていないどころか、普通の意味での学校教育さえ受けていない。もう一方は専門教育を受けた先進国のプロのアーティスト。不思議だ。実は不思議じゃないかもしれない。
確かにすごく似ている、けれど、どこか違うのだ。かなり乱暴に言ってしまうと、エミリーの絵には中身があり、モダニストの絵には中身がないと感じられてしまうのだ。
モダニストの作品はスタイルに対するストイックな追求と社会や文化・アートに対する批評性により成り立っている。それが現代のアーティストの存在理由でもある。エミリーにはそういったストイックさは皆無で、批評性もあまり感じられない。モダニストのアーティストは個人の力だけでエミリーの世界に近いことを成立させようとしているため、見ていて切実すぎて辛いがことがある。
エミリーも勿論個人だが、彼女の表現の背後にはボディペインティングや砂絵の制作の携わったこともあり、アボリジニの長い歴史に培われたコスモロジーとも呼べる自然観、宗教、信仰、世界観(彼女達アボリジニはそれをドリームングと呼ぶ)がある。それらが彼女の絵筆を通して自然に立ち現れてくるのだ。彼女はまさに媒体(メディウム)で、個人であって個人ではない、アボリジニの共同体の記憶の集合体としての存在だ。だから、モダニストの作品は行為性や視覚的な要素が強いが、エミリーの作品は視覚の向こう側を強く感じさせてくれる。そこがモダニストの作品と根本的に異なる点で、中身があると感じた理由だ。
エミリーの絵から感じるのは自然を見たり、自然の中にいて自然そのものから感じられる、ぼんやりとしていながら強くうごめく何かだ。砂漠や大地といった大自然がもっている呼吸、風の音や季節の移ろいに感じる何か。ヒューヒューやザラザラやぐわぁんぐわぁんやらの自然の音や声が聞えてくる感じ。私達人類の遺伝子の中にある記憶を呼び覚まし、なつかしい感じにさせてくれる何か。人間と自然との秘密の会話を聞いている感じ。とにかくそんな様々な感覚が生まれてくるのだ。エミリーの絵を見ていると、身体が軽くなり空中に浮いてきて暖かい感覚につつまれる。視覚的に何が描いてあるかはよく解らなくても、そこで感じられる何かがアーティストの言いたいことなのだと改めて思う。「うわ~!」これだ。この感覚。
改めて画面を見れば、そこにはとても大きい画面にただたくさんの点がうたれていたり、長いストロークのリズミカルなタッチがうねうねと続いていたり、からまったリしているだけなのだ。
具体的にいうと、今言ったように、彼女の作品は点描やストロークでできた抽象画だ。ある作品は極彩色、ある作品はモノクロームに近いがそのヴァリーションはとても豊富で、点描はただ点をうって平面を埋めていくのでなく、点を打ち、画面が埋まっていくことによって空間が生まれ、開かれた場所になっていく風景のような絵画だ。
点の色彩やその背景のかたちや色(ストロークの上に点描された画面もある)、そして強弱が組み合わさって絶妙の空間を作り出しているのだ。その奥行感は西欧の画家達が考案した遠近法が作り出す奥行と異なった遠近感、奥行感が存在する。とても精神的な遠近感だ。
そして大切なことはこの点描のほとんどが彼女の故郷アルハルクラと関係する何らかのイメージだということだ。また、ストロークの作品のほとんどはヤムイモ(地中で育つ食用の根茎)のドリーミングと呼ばれ、アボリジニとっての象徴的なシンボルをモティーフにしている。
そして、ヤムイモの形態とストロークの動きとの関連性や、アルハルクラの風景の光と点描との関係など、作品の造形性と具体的に関係づけられそうな要素が数多くあるが、これらすべてがアルハルクラの土地と強く結びついているものだ。
このようにエミリーの描くものは表象的には点描とストロークの抽象性によって成り立ち、イメージの根源はアルハルクラの大地とアボリジニの霊的な関係性から生まれているのだ。どんな大きな絵も小さな絵もドリーミングというアボリジニの物語の断面を語っているのだ。エミリー・ウングワレーは現代社会に現れた縄文人なのだ。ただ、素朴な縄文人ではなく、様々なかたちでアボリジニを迫害していたイギリスやオーストラリア政府に対するアゲンストとして、失われつつあるアボリジニの文化を残し、目に見えるものにし、価値にしておくことが、アボリジニにとっての戦いであり、重要であるということに充分自覚的であったアーティストだ。
エミリーの言葉を引こう・・・「すべてのもの、そう、すべてのもの、アウェレ(私のドリーミング)、アーラチ(細長のヤムイモ)、アンカールタ(トゲトカゲ)、ヌタンイ(草の種)、ティング(ドリームタイムの子犬)、アンケレー(エミュー)、インテクウァ(エミューが好んで食べる草)、アニュールラ(緑豆)、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの。」
私は思う、アーティストはエミリーだけではなく、みなすべてを描こう、表現しようとするものなのだと。だから、ポロックやモダニスト達も彼らにとってのすべてを表現しようとしたのだ。
ただ、その立っている場所がエミリーの場所とは異なった場所(様々なものが変化し、呪術的な感覚が失われた場所)で表現しようとしているのであり、その場所は私達の場所でもある。また、その不可能性に対する戦いの意味は現代社会に生きる私達の意味でもあるから、モダニスト達の試みは私達にとって切実だ。だから、較べること自体無意味なことかもしれないし、そこで中身があるか、ないかという問題は本当は大切ではないのだ。それよりも、両者のめざしたものがとても近いということが重要だ。
知的障害を持つアーティスト斉藤裕一とサイ・トゥオンブリとの類似性について書いたことがあったが、ここでもやはり同じ問題に突き当たる。仮説で言ってしまえば、現代アートはすごく前衛的であったり現代的であったりするが、私にとって興味深いものは人類史の記憶の中にある記憶やイメージなどの「何か」を追い求め、表象しているものである。もしかしたら、遺伝子やDNAレベルでの、失われつつある感覚や記憶やイメージかもしれない。だから、エミリーの絵やアウトサイダーの作品を見ると感覚がザワザワしてくるのだろう。
現代のアーティストは知性や制作やトレーニングによってそういったある領域に近づいていくが知的障害や精神障害を持つアーティスト達はその領域に直接ポンと入っていってしまうのではないか、また、エミリーのよう白人社会から離れ、アボリジニの文化を奇跡的に持ち続けた場合、現代に現れた縄文人が絵を描き始めたように存在していることもある。
とはいっても具体的には同じ時代に生き、情報化社会の反映は様々なところに存在する。それはアートを見る側も同じで、アーティストが、どのような出自で、背景を持っているかということも重要だが、それらの差異性よりすべて現代アートとして存在し、見る側が鑑賞し考える事となる。そしてそれらの多様性が現代社会をかたち作り、アートの価値をつくっているのだ。だから、実のところ真にアートをつくっているのはアートを見る側だということになる。
つまり、障害をもったアーティストのアートもエミリーのアートも現代だからこそアートとして価値付けられているのだ。もし100年前にエミリーの絵のような作品が見出されたとしても、それは文化人類学の対象となり、アートとしては語られなかっただろう。同様に障害を持った人達の作品も障害の反映、狂気の反映としか価値付けられなかっただろし、アウトサイダーアートというカテゴリーも存在しなかった。私がエミリーの作品に感じた驚き、感動は現代に生きているからこそだ。また、現代だからこそモダニスト達サイ・トゥオンブリやJ・ポロックのような作品が生まれ必要とされるのだろう。
すべては現代だからなのだが、その現代とはなんなのか。そんなことは私にもまったくわからない。ただ、アートは「なんなのか」という問いそのものであるし、それらを考える結節点として存在し、その時代の人間のすべてを反映していると感じる。
私はエミリー・ウングワレーの絵画を見て初めてアボリジニという人達がどういった人達なのかわかった気がした。
「エミリー・ウングワレーの言葉は新国際美術館カタログによる。」
エミリー・ウングワレーの紹介 http://www.emily2008.jp/
画像作品は斉藤裕一の「ドラえもん」
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【クワジマ流ちょいアート】声に出して読んでください。くわじまゆきお
Posted on 7月 19, 2008
あなたが、声に出して読む事により
この文字たちの発明者になります。
ぜひ、この読み方のない文字たちを完成させてください。
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【Esquisse ou Croquis …?】~『音噺』~Kylin
Posted on 7月 17, 2008
大阪にある「おーらいレコード」の音楽プロデューサ氏から、
リリース間近のCDジャケットに題字を揮毫するオファーを
頂いたのは今年の2月ごろ…。
某サイトに、北野天満宮「天満書」を奉納したことや、
知人のギャラリーで個展を開いた外国人にお習字を教えたこと
などを書いたのが目に留まったとの由。
新譜を出すミュージシャンというのが、小山彰太氏。
「山下洋補トリオ」「坂田明トリオ」の元メンバーで、
日本のモダンジャズ・シーンを走って来た人だ。
”とんでもない人”というか、”大御所”とも云うべき人のCDに
関わることになる…。
何度もプロデューサ氏に確かめた。
「本当に、ワタシでいいんですか?」
と…。
その時の彼曰く、
「プロの書家に頼めば、
彼のプライドと流儀が小山氏の要望と合うとは限らない。
今は、その調整時間が無い。
ならば、ミュージシャンの”わがまま”に柔軟に対応し、
何よりも、この出会いを面白がって楽しめる人がいい…」
今まで出した、小山さんのディスコグラフィをサイトで眺めた。
その中で気になったアルバムがある。
『音三昧』
ボタ、滲み、擦れ。
毛筆でしか出せない表現に溢れている…。
”ただ、綺麗な字が欲しいわけではないのだな…”
最初は草書で書くつもりだったワタシでも、直感的に雰囲気が
分かった。
書体の手本を色々と探した。
その中には、最近流行りの「お習字アート」の美術書もある。
たまたま洛中の古本屋でこんな本を見つけた。
『書体小事典』(東京堂出版)
中国四千年の先人の息使いが満ちている。
「音」は王寵の書が良い。
「噺」は王守仁の書が良い。
いずれも、筆の運びが流麗である。
しかし、手本を見ながら書くと、筆が止まる瞬間がある。
その瞬間、即興性は無くなってしまう…。
手本を見ずに書けるようになるまで、時間がかかる。
何枚も書いた。
お習字というのは、半紙1枚に関しては真剣勝負である。
ワタシは字を書いている際には息を止めている。
一度筆の穂先を下ろしたら、もう後戻りは出来ぬ。
「勢い」と「形」の釣合いがいつ揃うのか…?
やっとの思いで「OK」が出た時に、
”もう息を止めて、根を詰める必要は無いのだ”
と安堵の溜息が出た。
今年の七夕の日、
小山彰太氏『音噺』
のCDリリースに”GO”サインが出た。
想像してたのよりは、ずっと神秘的だった。
このジャケットからくるイメージと、実際の音とを聴き比べて
みて欲しい…。
→→→** Links for ** ・・・
■小山彰太氏 プロフィール
http://www.ohrai.com/musician/koyama.html
http://www.hotmusic.co.jp/profile/syotaprofile.htm
■「おーらいレコード」
http://www.ohrai.com/home.html
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『静物画の秘密』の秘密をバラす 村松恒平
Posted on 7月 5, 2008
静物画? おお、つまらない! というのが我が裡の第一の反射である。
しかし、『ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密』。
秘密というからには、そこにはすごい秘密があるのだろう。
そして、その秘密の鍵をそっと手渡されたものだけが、重い扉を開けて秘められた絵画の快楽をむさぼるのであれば、……ゲットするしかない! と僕はそのクエストに出かけたのである。
……でどうだったかというと、これはたいへん面白い展示である。
静物画がつまらない、と思っていたのは、静物画を描くモチベーションが主に質感を出すような表現の技法を誇示することにあるように感じていたからだ。
西洋古典画の他のお宝作品と混在して並んでいる展示だと、どうしても解説や関心が技法に偏りがちになる。
しかし、この展示では、静物画だけを系統的に並べることで、むしろ、静物画を技法という観点の重力から解放して、宙空にあるような軽みを感じさせる。
それが芸術の本来だろう。
最初の部屋では、果物や花、解体されかけの畜肉の並んだ市場の風景を静物画の先駆けとして展示してあるが、これでまずほっとする。
市場で働いている人や買い物に来ている庶民の表情や眼がいい。
即物的であったり、楽天的で好奇心に満ちていたり、無知で残酷であったり、勤勉であったり、利害で素直に動きやすい感情であったり、さまざまなものがその眼から読み取れる。
一言でいえば、猥雑であるわけだが、当時の画家にたぶん猥雑という言葉のフィルターはないから、意図的に強調された表情ではない。
たぶん、彼らは、一週間後のことも、一か月後のことも、一年後のことも考えていない。もちろん、我々のように、十年、二十年後のために保険や年金を支払うなんてこともない。今日の興味や義務だけで生きている人たちの表情がほとんど生きて保存されている。これはすごい絵の魅力だな。
*
しかし、入り口でばかり感心してはいられない。
静物画について語ろう。
*
静物画の一つの魅力は「これでもか!」という過剰にある(ということがこの展示でわかったのだ)。
僕はかつて絵を描くために花を買いに行ったことがある。
芸術であるからして、当然、既存の花束ではなく、自分が絵に描きたいと思う花を選ぶのである。しかし、花屋では、安いわりにはこの花はいい、とかコストパフォーマンスを計算する余裕はない。直観的にこれとこれ、と指ささなくてはならない。
芸術のために出費は惜しまない! という気持ちと、一体いくらになるのだ、という計算がせめぎ合って、一つの濁流となったのである。
その濁流に流されるままに支払った花束3,700円。
牛丼なら10杯食える。
それが芸術の原価として費消されたのである。
しかし、描かれた絵に誰かが牛丼10杯より高い値打ちを見つけ出すとは限らないのである。いや、見つけ出すどころか、その価値は存在するかどうかすらわからないのである。
花は枯れる。果物や肉、魚は腐る。
それを絵に描きとめることは、たいへんな蕩尽と紙一重である。
もちろん、絵のモデルを終えた食物は食べることができよう。しかし、その思惑、算段も含めて、一枚の静物画を依頼するということは一家にとって大事件であったに違いない。
とにかく、自分が依頼する以上、貧しさ物足りなさではなく、豊饒な感じ、新鮮さ、生命感、リッチな感じをださなくてはならない。
盛りだくさんのごちそうと、自慢の器物。背景の天鵞絨の布。あれも入れよう、これも入れたいとやきもきする金持ち、貴族たちの右往左往が眼に浮かぶ。
画家はそこに広告カメラマンのように一歩下がって立って、あれこれと指図しながら、騒ぎがおさまるのを待っていたのだろう。
クライアントの機嫌をそこねてはいけないし、いい絵を描いて注文を増やしたい。しかし、どこか距離を置いて、冷ややかでもなくホットでもなく、生ぬるい温度でじっと騒ぎがおさまるのを待っている。
そういう姿が浮かんだとき、静物画はぐっと面白くなる。
そして、画面は過剰になる。
「奥様、こんなものを入れたら、もっとすごい絵であちらのお宅と差をつけられますよ」と奥方に耳打ちして煽る画家もいただろう。絵の題材が高価になればなるほど、絵のサイズも大きくなり、代金も上がる。現代の広告と同じだ(推測だよん)。
画家も、その過剰に対して、細部の緻密な描写、質感の微妙な差異の強調、背景などの執拗な描きこみ、という過剰を持って答える。
そういうドラマツルギーがあきらかにあっただろう。
その結果は…。
虚しい…。
この一言に尽きる。
したがって、静物画のテーマは虚栄、ということにいきつくのである。
やればやるほど虚しくなる。
虚栄は静物画の一大テーマとなる。
「絵に描いた餅」を全エネルギーを傾けて描くのであるから、当然の帰結である。
しかし、それはまさに芸術のアンビバレンツであって、画家たちは、それが嬉しくて仕方なくなってしまった、というのが、まさに秘密の真相であろう。
過剰が生み出す効果としての虚しさを、画家が遊び出すのである。
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たとえば、この『虚栄(ヴァニタス)』というそのものタイトルの絵は、俗っぽい比喩の過剰さにおいてヘビメタである。
地球儀の上のカメオ、これは皇帝シャルル五世である。世界をも我がモノにしそうな栄華、その死後70年が経った頃に、衰えを見せ始めたハプスブルク家を描いたものである。
死を現す髑髏。火の消えた蝋燭。砂の落ちた砂時計。カルタ。金時計。美しい女性の肖像や財宝。戦争を現す銃と甲冑。すべてが時の流れと栄華の虚しさを現すことに費やされている。調べてみると、シャルル5世は、美を愛し、美術を理解し、世界の宝物を収集し、建築にも力を入れた王であるようだから、なおさら皮肉である。
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この『春・愛』という絵も、楽器を持つ男の周囲の散らかりようも尋常ではないが、背後の景色も5,6段に別れていて、そこに人物やできごとが散りばめられている。
こういうのも、顧客サービスであると同時に、画家自身が「まだ入る、まだ入る」と構図を工夫してぎゅうぎゅうに詰め込んだ過剰さがあって見飽きない。
そういう画家の遊び心にシンクロすると、静物画、見るほうも絵の中でけっこう遊べる。
あとは遊び上手かどうかだけだ。
秘密の鍵をたしかにゲットして、僕はクエストを終えた。
*
p.s.
この企画は、日本側の監修者の木島俊介氏が、8年がかりでウィーンの美術館を説得しつつ、準備したものだという。ウィーン美術史美術館の担当者の話も聞いたが、かわいい子を旅に出すかどうか迷うような、作品に対するたいへんな愛着を感じた。
このようなていねいな企画が、日本でも愛をもって受け入れられるといいと思う。
*
『ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密』
http://www.nact.jp/exhibition_special/2008/Wien/index.html
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「わからない」と言えますか むらさき
Posted on 7月 2, 2008
某美術大学の某教授が、ある抽象造形作品を観て
「わからんな」
とはっきり仰ったことに些か驚愕致しました。
この方がそのような方だということは存じておりましたが、今更ながらに。
「わからんな」
と申しますのは
「何を表現したいのか理解できないし何かを汲み取る気にもならない」
という意思表示でありました。
この方を「某」と表現致しますが、別段なんでも構いますまい。
准教授であろうと、著名デザイナーであろうと。
美術の世界でとりわけ肩書きや立場にしばられる位置にあっての発言に変わりはありませんから。
しかもこの教授は、美術界を揺るがす名物としてお金であちこちに引っ張ってこられる方ではなく、ご専門の研究はきちんとこなす方でいらっしゃいます。
自由奔放変人ぶりが売りというわけではいらっしゃらないのです。その分、本当に思ったことしか口になさいません。
その造形作品は、明快なメッセージを理解されようという意図は見てとれぬ、むしろ造形の特性と心象表現に重きを置いており、そうした実績で受賞歴などのある作家のものでした。しかしながらあらためて、このような奇怪な色・手触り・形態のものが評価されるとは、「美術」とはなんぞやと考えます。
イメージの上で個々に齟齬があるのはもはや当然のような存在。
そうした作品です。
美術の世界に身を置く方に、お聞きしたいと存じます。
誰を前にしても、一見不可解な造形物に関して
「理解できない」
とはっきり言い切れますか。それとも、理解できるふりをしますか。何か糸口を探しますか。違う切り口を探して長い批評表現をなさいますか。
次に思いましたのは、特に美術館に頻繁に足を運ぶというわけでもないごく一般的な市民の方々が、そのようなとっかかりのない抽象造形作品について、
「わからない」
と言えるかどうかということでございました。
わたくしが接した中では、お客様の言葉には
「わたしなどにはわかりませんから…」
というような口調に妙な申し訳なさを感じ取りました。
またもっと進みますと、『わからない』という言葉すら口に出せない方もいらっしゃいました。
非具象をお嫌いな方は、お話をうかがっておりますときちんと持論を展開なさいます。そういった愛好家の方の強い口調の裏にも、『わからない』と口にする恐れのようなものを感じることがございます。
わからないこと、理解できないことは、悪いことなのでしょう。そしてとても格好悪いことなのでしょう。
誰かがそのように決めてしまったのに相違ありません。
おそるおそる、わからないという意思表明されたお客様に対して、果たしてわたくし共のような『美術サイド』の人間が
「そうですよねえ、これは全く理解不能ですね」
と言えますかどうか。試されているような気も致します。一方、画廊に足を運んだのに
「つまり、わからなかった」
とお話をしただけでお帰りいただくのは、お客様のおみやげとしてはあんまりだという思いはもちろんございます。
ですから『わからない発言』はあくまで前提に過ぎず、その先に本当の思いを発言する自由があるのだと存じます。
「何故、わからないか」─ この方向に話題を掘り下げてゆけば興味深い対話は可能です。しかしそんなに深く長い対話を、お客様が、通りすがりに立ち寄った画廊でお望みになるでしょうか。
一方、そのような可能性を知っているお客様なら既にどこかに扉はあるのです。
ですから要する時間の長さの問題ではございません。
美術に携わる人間として、またどのようなお客様にも接する専門サイドの人間として、自由とは何か、「わからない」とは何か、考えさせられたのでございました。
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