【クワジマ流ちょいアート】数えてください。くわじまゆきお
Posted on 2月 28, 2008
数えてください。
あなたが、数える事によって
この「ちょいアート」が完成します。
ここにいくつの数を導きだすのも
あなたの自由です。
真剣な気持ちでも、
いい加減な気持ちでも良いのです。
もちろん、
“数えない”という選択をしても良いのです。
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【左のポケット】その41「見世物小屋」 長島義明
Posted on 2月 27, 2008
「さー、いらっしゃい!、いらっしゃい!」
「世にも珍しい娘だよ」
「たこ娘に、ろくろく首、蛇娘だよ!」
「親の因果が此の子に報い、可愛そうに姿、形がこうなった。」
「名前はあるよ、お花ちゃんにお玉ちゃん、そして、もう一人、あさきちゃん。」
「お玉ちゃん、ちょっとお客さんに顔を見せておやり」
そばに開けられた鉄格子の窓の向こうで日本髪を結った女が、ちらりと横を向く。
「お玉ちゃんははずかしがってこちらを向かない。」
「日本全国広しといえど、たこ娘に蛇女、ろくろく首の娘に会えるのはここだけだよ。」
「そこの坊ちゃん、お嬢さん、おかみさんに旦那さん、後学の為、話のネタに
さー、入った、入った。見ていらっしゃい。」
「お代は1000円、さあ、お玉ちゃんが待ってるよ」
天満橋界隈の大川沿いに桜が咲いて、造幣局の通り抜けが始まると百を越す屋
台の隅で見世物小屋が立っていた。昔懐かしい、客を誘う呼び込む男はだみ声で、マイク片手に話しかける。
一昨年の通り抜けでは見かけたが、昨年、小屋は見かけませんでした。
なんでも大阪市の教育委員がクレームを付けたと云う事だ。人権上よく無いと
、長く続いた庶民の娯楽、規制するのは役人達の得意技。
こうして、いろんなものが消えて行く。
でも、僕には懐かしい。
夜店にお祭り、お花見と、屋台が出て、お化け屋敷や、見世物小屋が立ち、綱渡りする男や、火を吐く男、包丁売りの講釈に、がまの油売りや、バナナの叩き売り、あめ細工、小鳥のおみくじ。そんな店をオヤジの腕にすがりながら見に行った。
もちろん今の様にニンテン堂の携帯ゲームなどはない時代です。
インベーダーやエイリアンより、人間的でわくわくし、興奮したのです。
バイ、ベッタン、ラムネ、ビー玉、おはじき、おじゃみ、日光写真、紙芝居、金魚すくい、木登り、缶蹴り、チャンバラごっこ、竹馬、鬼ごっこ。
げんこつあめに、素こぶ、綿菓子、べろべろ、あべかわ、練りあめ、えびせん
ニッキ、ショウがあめ湯、
今の子供より遊びの対象は多かった。
マクドとゲームはなかったけれど、そばにはわんぱく坊主の明君も、かわいいお下げ髪のミキちゃんも居た。子供は沢山そばにいた。
今の子供はなにして遊ぶ?
オヤジは昭和の昔を思い出す。
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【クワジマ流ちょいアート】読んでください(02)くわじまゆきお
Posted on 2月 25, 2008
自由にこれを読みませう。
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【クワジマ流ちょいアート】読んでください。 桑島幸男
Posted on 2月 23, 2008
読んでください。
大きな声で読みましょう。
小さな声でもいいのです。
心の中でもいいのです。
あなたが、読む事によってこのほんの小さな芸術が完成します。
そして自由を感じてください。
くわじまゆきお
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【左のポケット】その40「アフガニスタンの思い出」 長島義明
Posted on 2月 23, 2008
平和だった頃のアフガニスタン
長島義明
アメリカ、イギリスがアフガニスタンを空爆しだしてから僕の睡眠不足が続いている。アフガニスタンの風景や人々、子供の顔が目に浮かんで眠れない。
子供達の誰もが笑顔に満ちていた。 それらは僕が1978年9月末から11月にかけてアフガニスタン各地を旅した時に目にした風景、出会った人々、子供達。 連日、テレビ、新聞で報道される地名、カブール、クンドゥス、マザリシャリフ、ヘラート、ジェララバード。次から次と走馬灯のように目に浮かぶ。
そのどれもが美しい。今、その美しさが悲しい。
一ヶ月間ほど、僕は英語もろくに話せないアフガニスタン人と2人、彼のボロ車で旅をした。 空路でまず到着した首都、カブール。
ホテルで謡ってくれた老人、中国の胡弓に似た楽器を奏でながら謡う歌はアフガニスタン民謡。旧市街のバザールは銀細工の店が多く、肉屋や米屋に混じって鉄砲を売る店もある。羊のカバブ(串焼き)を焼く香ばしい匂いが流れ、男達はチャイハナ(喫茶店)で茶をすすっていた。行き交う人はタジク人、ウズベク人、トルクメン人、に混じりモンゴル系、インド系、イラン系の人達、稀に目の青い人もいる。さすが、「シルクロードの十字路」と云われる国だけあって、様々な人種が入り交じっている。
どの店でも旅行者の僕に親切だった。お茶を飲んで行けと茶をすすめてくれる
。これからの旅、車で旅をしたかった、飛行機では田舎の町へは行けず、バスの旅では途中、写真を撮りたいと思っても止ってくれない。
幾台かの個人営業の運転手と貸し切りの交渉をするが言葉が上手く通じない。
また、30日間も家を留守にするのを受け入れる運転手がいなかった。
諦めかけていた時、少し英語のわかる人の良さそうな男と出会った、口ひげを生やしたその男は僕の旅に車と僕の運転手を引き受けるといってくれた。ただし、家族と別れる時間が必要なので3日後から旅に出る事になった。
条件は1日、10ドル、プラス食事代である。今思うとずいぶん安く引き受けてくれたと思う。舗装されていない道を行くのは結構疲れる、そんな時、トランクから石油コンロを出して茶を涌かし、たっぷりの砂糖を入れてすすめてくれる。
カブールからバーミヤンへ。
カブール郊外になると道は舗装されておらず、すぐ地道になり、岩の多い地肌の山を登って行く。ほとんど樹木は生えておらず、わずか草の緑があるていどの赤土だ
。出会う人は羊の群れを追う牧童ぐらいで、すれ違う車も少ない。
バーミアン近くになると澄んだ川が道の側に流れる景色になり、白樺の林が川の側に白い木肌を見せていた。秋も十月になると黄色く色づく葉も散り、箒状態の
林になっていた。バーミアンの宿はホテルと云うものではなく、モンゴルのパオ
を思わせるテント張りの建物だった。真っ白な新雪をいただいたヒンドゥクッシュの山々を背景に10件ほどのパオが立つている。それが、ホテル「バーミヤン」
翌朝、有名なバーミアンの大仏を見に行った。ホテルからバーミヤンの大仏までの道は空高くのびたポプラの木が1kmほど続く並木で朝の光を受け、斜めにのびた影が縞模様を描き、清々しく美しい道であった。
その日は運転手に休んでもらい一人で大仏を見に出かけた。ポプラ並木が途切れる頃、岩肌から突然大仏の姿が現れた。その顔は無惨に切り落されているが全身の大きさに圧倒される。その下で牛を引いた農夫が畑を耕している。のどかな景色だ。バーミアンは昔、この地を治めたモンゴルの汪、ヘブライの孫が殺害され、その復讐の為、全住民が殺害されると云う歴史を持っている。そして再び侵略してきたイスラムの手により大仏の顔は削り取られる。でも、僕が訪れたバーミヤンの村にはそのような血なまぐさい面影もない平和な村であった。
バーミヤンの村からクンドゥースに向かうべく僕たちはヒンドゥークッシュの山並みをオンボロで越えて行った。山道は初雪が30cmほど積もり、嶺は白く輝いている。途中、バンディ.アミールと云う美しく神秘的な湖に立ち寄った。伝説にこの湖に住む魚は全て片目だと云う。恋を引き裂かれたバーミヤンのお姫様が身投げをして、この伝説が生まれたらしい。
湖を後にしてさらに山道を行くと、男達が土を掘ってこしらえたカマドの上に大きな鉄鍋を置き料理をしている処に出くわした。近くに民家らしき物は見当たらない。大きいテントが一つ張ってある。
鍋にはお米に羊の肉のぶつ切りを入れ、岩塩だけの味付け、それを水で炊いていた。「どこから来たのか」男は僕に尋ねる。「日本から」僕は応える。
「モンゴル人か」、男達は日本と云う国を知らなかった。
「食べて行くか」思わぬ誘いだ。僕はよろこんでその好意を受けた。
アフガンでは古くから、旅人に食べ物を施す習慣があると云う。
料理はまことに豪快で素朴だが塩味が程よく、羊の肉もご飯も申し分無く美味しかった。長老達は食べた後の羊の骨を並べ、占いをする。吉か凶か。
食事をごちそうになり、別れる時、子供達が大勢見送りに来てくれた。
「また、ぜひこの村においでよ」皆楽しそうに手をふっている。
僕は彼等の写真を撮った。「この写真を届ける為、また、この村に来るよ。約束するよ」 僕もまた手を振り彼等と別れた。
今、僕はその時の写真を眺めている。あの時から30年と云う長い年月が経っている。未だにその約束を果たしていない。住所も定かでないヒンドゥークッシュ山中の小さな村。少年達は皆笑顔で手を振っている。僕は本当に彼等の写ったこの写真を持って再びアフガニスタンを訪れるつもりであった。その翌年、ソ連の侵攻が始まり、内戦が起き、アメリカとの戦争が続いている。実に29年間も平和な時がないのだ。いつ、彼等と交した約束を果たせる時が来るのだろうか。
旅は思い出を残し、先に進む。クンドゥースはまだ遠い。雪で覆われた山々をながめ車を走らせる。巨大な城の様な岩山の麓を赤い衣装の女達が数人歩いていた。こんな山の中をどこに行くのか、なかの一人の女性は子供をおぶっている。
まるで中世の宗教画を見ている様な光景だ。
長い下り坂の道を降りて、少し開けた盆地に出た。刈り取られた田は米を栽培していた稲田である。近くを流れる川から水を引き、水車を利用して脱穀している。昔の日本の田舎を思わせる光景だ。近くの村は黄土色の土壁むき出しの家が寄り添って立っていた。川を渡る橋も同じ土橋作りだ。
クンドゥースはアフガニスタンの北東部の町、空が広く、土地が平らになる。
その郊外では綿の栽培が盛んで、赤い衣装をまとった女達が綿の実をつんでいた。話しかけたが勿論、英語は通じない。何がおかしいのか、くすくす笑っているばかりだ。カメラを向けても拒否しない。
クンドゥースはサマルカンドやタシケントに通じる要所、古くシルクロードが盛んなころは中国の西安目指してラクダの商隊が通過した土地である。しかし、僕が想像するより小さな町であった。この町では昔と同じ様な商人宿、キャラバンサライに宿泊した。一階がチャイハナ(喫茶店)になっていて、二階が宿泊する大広間だ、ジュータンが敷かれた部屋に日本と同じような布団を敷いて雑魚寝する。
長い白髪の老人を囲んでターバンの男達は茶をすすり、真剣に老人の話を聞いていた。この国では老人は知恵者として尊敬される。夜にはランプが灯され、旅人の寝息が漏れ聞こえる。この宿では昔から変わらなく客をもてなしているようだ。朝食はチャイと焼きたてのパン、パンと云っても草蛙みたいに平べったい大きなパンだ。それにバターと蜂蜜がついてくる。
マザリシャリフはアフガニスタン北部最大の都会であり、僕が訪れた翌年にソ連軍が最初に侵入した町です。僕がこの町を訪れた頃は青いタイルが美しいモスクの前で数知れない真っ白な鳩が飛び交い、実に平和で美しい光景でした。純白の鳩は平和の象徴そのものに見えました。今もあの白い鳩はいるのだろうか。
モスクを訪れる女性達は全身を隠すブルカと云う衣装を纏っているが、足下にちらりと見える白く美しいレースのズボンを見せて、それなりにお洒落をしています。ブルカの色も白、黒、青、緑、黄色、赤と様々です。それに細かい襞がつけられており、歩くと優雅に揺れる姿が美しい。中にはどれほどの美人がいるか、一度素顔を見たいと思っても、それだけは不可能です。それがアフガニスタン女性のおきてです。何百年も続いている風習だからしかたありません。
マザリシャリフからイランの国境に近いヘラートの町まではずいぶんと長い距離がある。ひたすらに車を走らせたが5日もかかってしまった。
アフガニスタンと云う国を初めて意識したのは僕がパリを拠点として旅をしていた時に知り合った一人のスイス人の話からです。その国がいかに魅力在る国か、その歴史、風土、文化、遺跡など、その青年が語ってくれた。当時、ヨーロッパの若者達の間では、アフガニスタンは旅行先として、憧れの国だった。
古都、ヘラート。この都こそ、僕の旅の目的地だった。古くはアレキサンダー大王が侵略し、1383年にはモンゴル軍に破壊され、15世紀にチムール帝国の首都になり栄えた。今もその頃の面影を残す城壁の上に立つと、街が一望出来る。その城壁に座り、市場で買ったザクロを食べる。甘酸っぱい味が口中に広がり、城壁の下で売る、物売りたちの声がここまで聞こえてくる。ロバに積んだハミ(メロン)、ブドウにイチジク、ザクロにパン、それらは何処から運ばれて来るのだろうか。
日が暮れて夕闇が訪れる頃、ランプの灯が灯りだす。道行く女のブルカが揺れて、そのシルエットがとても優雅に見える。
この町の大道りには2mほどの溝が掘られ水が流れている。カレーズだ。オアシスの町として人工的に作られた昔からの川、かってペルシャやアラブの商人はラクダに多くの荷を積み、この町を訪れ、この川の水で足を洗い、ラクダに水を飲ましたに違いない。毎日、今でもこの川のそばに市が立つ。何百年そのままの姿で人は行き交う。夕食に入った食堂でカバブ(羊の串焼き)とアラック(ブドウから作った焼酎)を注文して外行く人々を眺めて過ごした。この町ではただぼんやりと古い歴史の中に自分の身を浸すだけで十分満足だった。
カブールからジェララバードに行く途中、コルムと云う小さな村がある、羊の群れを見張っている2人の少年が、退屈しのぎに木とゴムで出来たパチンコであそんでいた。なかなか上手だ。狙った的に良く当たる。その村がアメリカ軍の空爆を受け、ほとんどの住民が死んでしまった。結婚式の集まりをアルカイダの連中の集会と間違い、誤爆したらしい。と、新聞で読んだ。逃げ惑う村人を飛来した軍用ヘリコプターの上から機銃操作して殺害したとも書いていた。
その村でしりあった子供は無事だろうか。きっと、木とゴムで出来たパチンコで、村人を殺害したヘリコプターめがけ、小石を射ち続けたに違いない。
「ばかやろー、ばかやろー」と泣きながら。パチンコのゴムを力いっぱい引いて
射ち続けたに違いない。
翌日、僕はジェララバードの町からカイバル峠を行き、歩いて国境を越えパキスタンに入った。
終
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日常にもっとアートを。 よいち
Posted on 2月 21, 2008
昨日、当ギャラリーの展覧会会場にお越しになったお客様 Tさんと、ひときわ大きな油彩の抽象画を前に、しばらく話し込んだ。
Tさんは、展覧会のたびに足を運ぶのを楽しみにして下さる常連さんのおひとり。そして、何度か作品をお買い上げいただいた方でもある。
Tさんは、首を傾げていた。
「韓国のドラマを好きでよく観ているのだけれど、その背景に、家の中のちょっとした壁などにね、こういう気の効いた現代アートの絵画が飾ってあったりするのよ。ほんとに何ということのない主張するというわけではない小さいものだけれどそれがとっても素敵なの。
日本のドラマを観ていてもそういうものはないのよね。もっと普通に、現代美術を採り入れればいいのにね。なぜやらないのかしら」
そこで私も首を傾げて、ふたつの仮説を挙げてみた。
(1) 韓国では、実際に中流階級以上の家庭で、日常の中でアートを採り入れるハードルが低くなっている。
これは近頃私の中でちょっとホットな話題である。
船橋市民ギャラリーで連続講座「市民が育てる文化施設」の初日、 2008年2月13日に第1回「上海アートシーンと新しいアートスペース」が設けられた。
Nam HyoJunさんの談話から、アーティストの活動しやすい海外の現状(上海、北京など)について語られたというログをネットで拝読した。
日本で現代アーティストが活動しにくい背景は、生きにくさや刺激を求めて海外に出てしまう作家もいること、その支援団体すらあること。
それらを考えれば、ある程度は想像にかたくない。
次に
(2) 韓流ドラマとして日本で放映されているのは、韓国の現実の日常よりはかなり夢物語という世界である。
つまり、日常では実際にどうかということはわからない、という前提である。
そうすると、日本では夢物語のようなドラマはないのか?
あるだろう、とTさんと話し合った。
リアルであることが好まれる最近のドラマの傾向がある面では事実だとしても、たとえば「月9」という時間帯が特別であったりする事実もまたある。
その特別さはスタイリッシュであること。高級さや豪華な生活ではないが、格好のいいキレのいい人間の生きざまや生活風景である。
まさに中流階級ちょっと上、といったところだ。
しかし、その日本の夢物語には、現代アートの額が飾られることはないようだ。
注記しておくと、Tさんの提供した話に依る根拠であって、私は月9をこれまで網羅してきているわけではない。ただしTさんにはそこが非常に違いとして気がかりであるようだった。
なのでこのまま、その雑談から先へ進む。
たとえば日本のドラマの小道具や美術は、小物づかいがとてもうまいと思うことがある。「粋」「趣」という言葉がしっくりくるような。そこにはしっかり技術と資金を投入しているから嘘がない。
でもその「粋」「趣」に、なぜか現代アート作品が見当たらない。
Tさんは、
「たとえばこの作品だって、背景に置いたら素敵だし、お値段だって私が買える範囲なのに」
と、大きな作品に挟まれて展示されている、規格より非常に小さい正方形の油彩画を指した。
『アートを買う』ということについて、慣れない人にとっては相当なハードルがあることを、画廊にいると常々感じる。
このたび、Tさんは、ちょっとしたコラージュの作品を一点と、版画にペイントを加えた小作品一点をお買い上げになった。
どちらも、プレゼントにしたいということである。
Tさんのお買物はいつもそのように、相手に負担にならない金額と相手の年齢や好みを考慮して、しばしばプレゼントとする。
そういうことは、誰かにものを贈るときに誰でも考えることだ。
金額は、アートだからといってとびぬけた価格を選ばなくても良い。今回のTさんだって一作品につき2万円也、である。
その気になれば、アート作品を手にすることは、ちょっとした本革のバッグや靴を買うことや、好みのブランドのワンピースを買うことと、金額的にそれほど差があるわけではない。
そう、Tさんと一緒にうなづいた。
価格の話を進める。
ある美術関連のネットサイトで、
「美術館のミュージアムショップでの買物」
という話題に関して、
「自分の好きな著名な作家の実物作品は買えないが、そのリトグラフは好んで買う」
という回答が目立ったので興味をひいたことがある。
さて、『著名』な『リトグラフ』、幾らぐらいの値段をするのだろうか。
リトグラフもとても精巧なものは出来が良く、所有することは非常に楽しいことだろう。
ここで注目したいのだが、同じ価格で、作家が作った生の作品を手にすることはまた別の喜びがあるのではないかということだ。必ずしもその作家の名前を、国立美術館で見かけたことがなくても、である。
たとえば、Tさんと眺めていたその作品、
「こういうとこがね。いいよね」
と指で空をなぞったあたりは、油彩のマチエールのビビッドさが繊細かつ個性的で、とりわけ作品を魅力的に構成しているところであった。
油彩に限った話ではない。版画にも水彩にも、立体にも、どんなに精緻なつくりであってもそこには作家の指づかい、息づかいがある。
その作品を手から手に。
あるいは自宅に置いてみたり、あるいは人に贈ってみたりと渡ることは、本当に生きたコミュニケーションだと思う。
話題はさらに広がる。
よく、お客様から『絵をかける場所がない』というお話をうかがう。
ご来場の方の中には、ギャラリーでの挨拶・常套句として
そう口にされる方もいらっしゃるだろう。
だが、本当に魅了されて、何度も同じ作品の前に行きつ戻りつし、それでも最後にこの言葉を発して残念そうに去ってゆかれる方が事実、いらっしゃる。
その作品は必ずしも、号数万からといった銀座の画廊さんがバックについているような作品ばかりではないし、日本指おりといった作家というわけでもないのである。
絵を買ったことがないのでどうしたらいいのか、高い買物なのかどうか判定しかねるのではないかと、お話をうかがっていると推測される。
Tさんのような買い慣れた方や、作家さんご自身など、さまざまな方からアイディアを頂戴しているので、私もプレゼンテーションすることがある。
西洋的な建築の何もない壁のようなものが必要大前提と想像するところからつまづいてしまっているのではないですか…というふうに。
ある方は、階段の手すりに平面作品をかけていらっしゃるという。
ある方は、トイレの中が家の中でもっとも芸術の場であり、安らぎの場であると、冗談混じりの本気でおっしゃった。
多分、いろんなご家庭で、ちょっと素敵なカレンダーを年末にいただいたりした折、これはどこにかけようか、と思うことがあるだろう。
それと同じ感覚で良いのではないですか、と。
そして、たとえば花の絵のような季節ものなのだとすれば、花瓶に飾る花と同じに季節が過ぎたらそっとしまって、またひと巡りした頃に出しても良いのである。家の中の日常風物詩になりうる。
きっと、身近に存在する日常の現代アートへのハードルを下げる余地はまだまだある。
一介のギャラリー勤務なる私にできることは限られているが、お気に召した作品を前に
「素敵だね」
とお客様の笑みがこぼれるのを見、さらに言えば作品をお買い上げいただいて本当に嬉しそうなお顔を見、人と人をつないだ実感を得るのが何より嬉しいから、努力は惜しまない。
日本の現代アートにエールを送ろう。
そしていつか、Tさんが気の効いたドラマの美術スタッフを褒めて、喜んで私に話をしに来る日が、来ますように。
ところで、この文章の中で、「美術」と「アート」という言葉を使い分けた。その違いについては、またいずれ。
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【左のポケット】その39「ベニス幻想、3」 長島義明
Posted on 2月 19, 2008
10時の連絡船に乗りベニス、サンマルコの船着き場からホテルに向かい歩いていると一人の男が肩をたたき小声でささやいた、「どうだい、死者の島のパーティは面白かったかい」そう云うと黒いマントをひるがえしサンマルコ寺院の中に消えて行った
ホテルに帰るとフロントの男が「昨夜は帰らなかったが、いい女でも友達になったのか」と云う。とんでもない、ぼくは昨日のサンミケーレ島での出来事を説明した。男は笑いながら聞いていたが、まるきり信用していなかった。だが、島には口のきけない墓守が一人住んでいて無人島ではない事を教えてくれた。死者の島、サンミケーレで見た事はどうしても夢だと思われない、もう一度島に行ってみよう、口がきけないが墓守が住んでいるならなにかわかるはずだ、絵を描き、手まねで少しは聞きたい事を理解してくれるだろう。僕はその翌日、ふたたび連絡船に乗ってサンミケーレ島に出かけた。船には墓参りに行く3人の老婆が乗り合わせた。老婆に墓守のいる部屋を教えてもらい、僕はひとり訪ね、墓守に身振り手振りで昨夜の事を話した、言葉はわからないが耳は聞こえるらしく、なんとなく理解してくれたようである。墓守は僕の話を聞いて何を思ったのか、手を取り墓場の方に案内して行く。海に近い墓場の草をかき分け何かを探している様だ
、30分程探し、やっと目的のものを見つけたらしく、僕を手招きした。そこには今まで見た事もない30センチほどの動物の死骸が横たわっていた。墓守が指で突つくとかすかに動く、まだ死んでない様だ。近づいて見ると美しく虹色に変化する顔の中に目があり、その目から涙が流れている。魚ではない、鳥でもない、犬でも猫でもない、なんだろう。小さい手のようなものと足のようなものがついている、墓守はなにか口をあけて説明しているのだが声はでない。僕は墓参りにきている3人の老婆の事を思い出し、墓守を老婆の所に連れて行った。老婆の説明によると、墓守は草葉の陰に居るのは「死者の亡霊」だと云う。
年に一度、仮面祭りの時にこの島に帰って来る亡霊の中のひとりが飛行物体に乗り遅れ、取り残されたそうだ。老婆もその説明を信用していないらしく笑って、その不思議な生き物を見に行こうともしない。僕は墓守とその生き物がいる草むらにもどり、写真をとった。墓守はその生き物を優しく抱き上げ、海までいって、放した。不思議な生き物は静かに沈んでいく。それが死者の亡霊であるかどうか僕にはどうでも良かった。ただ、涙を流し続ける不思議な生き物のことは生涯忘れられないだろうと思う。
ベニスは不思議な町である。古い時代の面影を残す町は他にもあるが、ベニスの様に海に囲まれ島全体が中世の建物でなりたっている町はない。僕はこの町の持つ雰囲気が好きで度々訪れている。夏のベニスは世界中から来る観光客でいっぱいになり騒々しいが、冬のベニスは仮面祭りの日を除いて本当に静かだ。夜、飲んで細い路地を歩くと自分の足音が石畳に響き、誰か後ろから付いて来るのではないかと振り向く時がある、運河が多いこの町には車は入れない、音といえば時折狭い運河を行くゴンドラの漕ぐ音がギィー、ギィーと聞こえるぐらいである。いつ、どこに死者の亡霊が現れてもおかしくないほどの静寂につつまれている。この町には土がない、すべて石だ。ただ墓場の島、サンミケーレだけは土の地面がある、この島に渡ったときに感じた。土はなんと生臭く、暖かいものか、この物語りはまるきりの創作でもない、僕が経験し、酔って夢に見た事をベースにしている。ベニスにたった一艘しかない黄色のゴンドラ、花嫁が乗るのか、死者が乗るのか。祭りの日を過ぎると消えてしまう仮面の男女は死者の亡霊ではないのか、真夜中のサンマルコ広場の空に浮かぶ仮面はなにを語るのか。ベニスに居ると毎晩ワインを飲み過ぎ、夢か現実かわからなくなる。 終
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【左のポケット】その38「大阪のリヤカーマン」 長島義明
Posted on 2月 18, 2008
風の便りに聞いた。
東京の12チャンネルテレビ番組でリヤカーマンが、過酷な砂漠を横断している、と云う事を。
なんでも、リヤカーを引きながら旅を続ける冒険家だそうです。
大阪に住んでいるとそんなのは別に珍しくもなんともない。毎日、目にする光景です。
もっとも、大阪のリヤカーマンの場合は日々の生活がかかった仕事ですが。
リヤカーに積む段ボール紙の量は半端じゃない。
異国で砂漠をゆくリヤカーマンも大阪で重たい荷を引くリヤカーマンも
共に体に気をつけて、がんばってと、エールを送る事にしよう。
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【左のポケット】その37「ベニス幻想、2」 長島義明
Posted on 2月 18, 2008
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翌日約束の場所に行くと一艘の黄色いゴンドラが待つていて狭い運河をぬけ、サンミケーレ島に向かった。ゴンドラを漕ぐ男は無口で一言も話さない。サンミケーレ島は墓場の島だが古い大きい家が一軒だけ建っている、何に使う家なのか、人の気配がしない。中に入ると大広間にはシャンデリアが明るく輝き大勢の人がいて楽団も入り、踊っている。そこに居る全ての人が仮面を冠り着飾っているが、なんだか変だ。話し声がいっさい聞こえない。ワインがあり、料理もいっぱいあるのだが、だれも手をつけようとしない。昨日誘ってくれた仮面の男を探したが全員が仮面を冠っているので探し様が無い、あきらめて一人でワインを飲み、料理をつまみ楽団がかなでる音楽を聴きながらダンスを見ていた。やけに年寄りが多いのに気ずいた、若者や子供もいるが9割がた老人だ。仮面を冠っていてもなんとなくわかる。楽団は一曲終わるとすぐ次ぎの曲を始める、ダンスはそれに合わせて踊り、休憩しようともしない。もう何時間踊っているのだろう。僕は話し相手もなくワインを飲み料理を食べ続けていたが退屈になって来た、それに空気が息苦しい。重い扉を開け外に出ると冷たい風が気持ちいい。
日は斜めになり帰ろうと船着き場にいったがゴンドラはいなかった。しかたなく墓場を散歩していたが、日が落ち薄暗くなり落ち着かない、こんなところで一夜を過ごすのは嫌だなと思って空をみると、星が現れ、それが近づいてきた。いや、星ではなく飛行機、ヘリコプター。うそだろー、それはとんでもない物だった—–。UFO
飛行物体が死者の島、サンミケーレ島の上空にきて停止すると島全体の墓がなんだかざわざわしだした。目に見えないなにかがうごめいている。さきほど仮面をつけた大勢の人が踊っていた建物の扉が開き、ぞろぞろ仮面の男女が出て来た。
僕は木陰に身を隠し飛行物体を見つめた。墓場の上まで飛行物体は来ると、突然,底部の一部が開き強い光が墓場を照らした。僕は急いでバックからカメラを出しシャッターを切った。墓場の端に在る広場が白く輝き、光の帯が飛行物体と繋がっている、仮面を付けた男女がその光の輪の中に入って行くと彼らの体は宙に浮き、スゥーと飛行物体に吸い込まれて行く、列に並んだ仮面の男女は次から次とそうして飛行物体の中に入っていった。僕は彼らに見つけられない様に気をつけてその光景を注視していた。長い時間をかけ、飛行物体に入っていった仮面の男女は1000人以上になるだろう。もうすぐ夜が開ける、僕の体が震えていたのは寒さのせいばかりではない。仮面の男女がすべて乗り終わると底部の扉が閉まり音もなくものすごいスピードで上昇し、西の空に飛び、やがて見えなくなった。空が明るくなり周りを見回してもなにもない、墓場は静かに以前のままで、舞踏会が行われていた建物も墓場も人の気配がない、ただひとつ仮面が墓の前に放置されていた。あの飛行物体はなんだったのか、死者をはこぶUFO———–。
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【左のポケット】その36「ベニス幻想、1」 長島義明
Posted on 2月 18, 2008
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二月のちょうど今頃、ベニスでは仮面祭りが行われる。その仮面祭りの日に僕は不思議な体験をした。少し、長い話になるがお付き合い願いたい。その日の夜、僕は酔っぱらってドカーレ宮殿の大理石の柱にもたれねむってしまった。なにか人の気配を感じてゆっくりと目を開けた。8つの顔が僕を覗き込んでいる。皆、やけに白い顔をしていて、笑っている顔が5つ、ツンと澄ました顔が3つ、瞬きもしない大きい目をしている。それが仮面であると理解するのにしばらく時間がかかった。「さあ、行こうか」仮面の人たちは僕の手を取り、立ち上がらせ、サンマルコ広場を横切りゴンドラがもやってある船着き場に連れて行った。「こうして両手を広げゆっくり羽ばたいてご覧」笑う仮面をつけた男がそう云うと、そばにいたツンと澄ました仮面の女性が羽ばたき、宙に浮き上がって行った。僕は言われたとうりに手を広げ羽ばたいた、少し体が持ち上がり宙に浮く。おもしろいのでさらに強く手を羽ばたくと、スゥーと、2、3Mほど上にあがった。それからはゆっくりと手を動かし、彼らといっしょにドゥカーレ宮殿を見下ろす高さまで上がり、カナルグランデの運河の上をリアルト橋めざして飛んだ。運河の両側は建物から漏れる灯でキラキラ光り、まるで蛍が川辺に遊んでいる様に見える。体がフワフワと浮き、とても軽く自由に動く、上下左右に飛ぶ事が出来る。仮面をつけた8人の男女も思い思いに飛んでいた。何時間飛んでいただろうか、気がつくとまたサンマルコ広場の上まで戻っていた。と、急に浮力がなくなりスゥーと体が落ちて行く、あわてて僕は両手をバタバタと羽ばたき、落ちない様にがんばった、でもすごい勢いで落ちて行く「ああ、落ちる、落ちる」誰かに肩をゆすられ目を開けると笑った仮面の男が立っていた。「もう、12時が過ぎたよ。こんな所で寝ていると風邪を引くよ」2月の仮面祭りの夜、僕は勧められたワインを飲み過ぎ酔っぱらい、ドゥカーレ宮殿の柱にもたれ眠つていた。仮面の男に起こされ目を覚まし、立ち上がると男に奇妙な招待を受けた。「明日,サンミケーレ島でパーティがあるので参加しないか」と云う。ベニスにはいくども来ているのでその島の事は良く知っている、そこは墓場だけで誰も住んでいないはずだ。「嫌なら、無理に誘わないがね、年に一度だけ島でパーティがあるんだ」なんだか面白そうな話だ。誘いを受ける事にした。話終わると黒いマントをひるがえし塔の柱の上に飛び乗りじーと立っている。
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