【Esquisse ou Croquis …?】~茫洋とした「詩」の海へ~
Posted on 6月 30, 2007
先日、ワタシが所属するアトリエ「輪音」のメンバーが中心で、
『コトバノイベント Vol.2』
が開催された。
文字通り、言葉に絡む表現のイベント。
今年のテーマは
「恋愛」
だった。
大阪・ミナミの一角にある、ちょっと古いビルの地下で目立った
のは、いろいろなかたちのコラボレーション。
・写真 + 詩
・写真 + 書
・写真 + 詩+書
・動画 + 詩
・写真 + 動画
・詩 + 朗読
・詩 + 演劇
・詩 + 音楽
etc.etc.
一番、新鮮だったのは、
「詩のライブ」
という形式。
ステージに4人の詩人が車座に座り、Pod-Castの形式でWebラジオ
中継する。
・ソロ
・デュエット
・トリオ
いろいろな朗読と掛合いのかたち。
展示してある詩に、声色というライブ感が加わり立体化する。
詩人といわれる人たちと話すと、時々、全然世界観が違う単語が
飛出してくる。
例えば、
「私はネコです…」
「ん?」
「名前が猫じゃないけど…、と思ってるんでしょ?」
「あ、うん…」
これは会話になっているのか、いないのか?
ワタシは、コラム・エッセイを書き、俳句・短歌を詠むけれど、
「詩」という世界には縁が無かった。
当日気が付いた。
そんなワタシが「詩」の世界に踏み込もうとしている。
ふとしたきっかけで、
「詩を書いてみませんか~」
優しい言葉でお誘いがかかった。
最初は、
”いい機会だし、書いてみよう…”
と思った。
でも、今になっては遅かりし、
”あれは、悪魔のささやき…”
と気がついた。
とにかく、全然書けないのだ。
いや、正確には書いたけれど、読んでみて思わずデータを消して
しまった。
なにしろ、自分の作った詩は、やたら甘ったるくてこっ恥ずかしい。
同じ内容を短歌で書いたら恥ずかしくないのに、何故だろう?
原稿用紙に手書きもしてみた。
谷川俊太郎氏ではないが、手に「B」の鉛筆を握り、自分の部屋、
会社帰りの喫茶店、そして「輪音」にあるこのパソコンの前…。
俯いて目を閉じ、何かが背中を叩くのを待つ。
でも、頭の中を聞いたことがある歌の歌詞が通り過ぎる。
”これは、失恋噛まされた時に涙ながらに聴いた曲”
”これは、病室で眠る時に子守唄代わりに聴いていた曲”
”あ、あのリフレインが好きだった…”
結局、いくら脚色したところで、”過去の集大成としての自分”
から発せられる言葉でないと、説得力がない。
つまるところ、”自分を晒す”のが怖いだけなのだ。
このエッセイだって、実のところ自意識が働いている。
書いては消し、書き足しては前に書いた文を消し…。
自意識が文章を制御する。
でも、口に出した言葉は、発してしまえば取り消せない。
「詩」は、文章のかたちをした話し言葉なのかも知れない。
物理的には消せるけど…。
さぁ、「詩」の海へ出航しよう。
日本の内海にあるヨットハーバーで、太平洋の波の高さを心配
していても始まらない。
今は、晴れていても、進路に低気圧はやってくる。
せめて祈ろう。
「詩」の海のポセイドンに笑われないように…。
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[美術事始余話] 幕末の髷1
Posted on 6月 28, 2007
高橋由一が横浜でワーグマンに油画を学び始めた慶応二年頃の制作とされる「自画像」。まだしっかりと髷を結っていて、由一がただの明治人ではなく「幕末-明治人」であることを見る人に認識させる。
もし由一の画集や図録を持っていて、この「自画像」を確認できるなら、デッサンの狂った魚類系の表情に目を奪われてしまいがちだけれど、ちょっとだけ髷の方を見てみよう。
頭頂部の髪を剃った部分を一般に「月代(さかやき)」と呼ぶ。幕末になると、この月代がグンと狭くなる(正確に言えば、狭く剃る人が出てきた。流行した)。私たちが時代劇で見るたいていの髷のカツラよりも、本当はずっとずっと狭かったりした(もちろん月代が広い人もいっぱいいた)。
由一の自画像の月代部分もよく見るとかなり狭い。幸い、慶応年間にはもう写真術も日本に入っていたから、同時代の人々の姿も白黒写真で見ることができる。被写体の男達の髷の形はさまざまだが、月代は時代劇のカツラよりも狭い場合が多い。
太平洋戦争以前、昭和初期の時代劇のカツラも、幕末が舞台の場合は月代が狭いことも多かった。まだ幕末に若者だった人々が存命だったし、実際に髷をして刀を持って生活していた人の「目」が生きていたのだろう。
もう少し遡って、明治時代の挿し絵で描かれる幕末の侍達の月代も狭い。そりゃちょっと前までは江戸だったのだから、髷がいったいどんなモノだったのか、よく知っている人も多かったろう。
上の画像は、画用紙に黒と茶色の二色のコンテで描いた近作。特に誰を描いたというわけでは無いが、「幕末の侍」ってこんな感じ、という私の中でのイメージだ。ふと振り返ると、この「細い月代」をずいぶんと描いたり彫刻で作ってきたりした。たかが髷かもしれないけれど、現在「当たり前」「普通」になってしまっている様式に、古写真や錦絵と比べて、「本当は違ったんじゃないの?」と疑問を持つ作業は楽しい。「髷」も何回かに渡って作品を交えて紹介したいと思う。
この[美術事始余話]では、文字通り「余った話」をちょろちょろと書いていければ、と考えています。
上の画像: 「幕末の武士」 2007年 筆者(平野太一)作 画用紙、コンテ
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【左のポケット】その13「ムーニング」 長島義明
Posted on 6月 28, 2007
若者が集まるバーが在ったので覗いていると、一人の青年が飛び出して来て急にズボンをズリ下げお尻を見せた。すかさずパチり。ワンショットだが写真が撮れた。お尻を見せるこの行為をムーニングと云う、悪意はない、おふざけである。ムーニング行為が若者の間で流行っていると聞いてはいたが実際目にするのは初めてだった。そして、僕はこのバーに入り若者達とビールを飲み楽しいひと時を過ごした。バーでは皆そろってお尻を出す、かっこのいい奇麗なお尻ばかり。僕ですか?そんなん出せる訳おまへんやろ。垂れ下がった、汚いお尻を。
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【思考する目】27「孫との対話」 長島義明
Posted on 6月 27, 2007
綾花ちゃん「ねえ、じいじ。ドクちゃんが結婚したと新聞に出てたけどドクちゃんて誰。そんなに有名な人なの。」
じいじ「そうだね、ドクちゃんはベトナムで生まれた結合双生児といつて、ふたりの子供がくっついて生まれて来た子供のうちの一人なんだ。この写真の様にね。それがこのままでは生きて行けないので、18年前、分離手術を受けたんだ。その時日本の多くの人もカンパをしたんだね。もう一人の子供の名はベトちゃんと云うんだが、その子は長く生きる事が出来ず死んだよ。そのドクちゃんが25歳になり、結婚したから話題になったんだ」
嘉洲くん「じいじ、新聞にはアメリカ軍がベトナムに枯れ葉剤をまいた為にベトちゃん、ドクちゃんのような子供が生まれた。と書いてあるけど、どうしてそんなことをしたの。」
じいじ「ベトナムで長い間戦争があつて、アメリカは南ベトナムの味方になり北ベトナムと戦っていたが北ベトナムの兵士、ベトコンが強くてね、それで、彼らの食料である農産物を枯れさし、ベトコン兵士がいるジャングルの樹を枯れさす為、空から5万5千トンもの枯れ葉剤を撒いたんだよ。その枯れ葉剤にはたった7gでニューヨーク市民全てが死ぬほど猛毒なダイオキシンが170kgも含まれていたんだ。その影響で多くの脳障害を持つ先天性異常児、巨頭児、結合双生児が生まれる様になつたんだ。戦争が終わって何十年もなるのに今でもそんな子供が生まれているよ、アメリカはそんな子供になにも補償をしていないんだ。」
綾花ちゃん、嘉洲くん「戦争ってこわいね。枯れ葉剤って恐ろしいね。」
じいじ「そうだよ、戦争は本当に恐ろしい、多くの人が殺され、なんにも得るものが無い、人を残忍にするし、破壊するだけだ。枯れ葉剤だけじゃない、広島、長崎に落とされた原子爆弾。湾岸戦争、イラク戦争で使われた劣化ウラン弾、バスーク砲弾。全ての化学兵器をアメリカが開発して、使用してきた。じいじはアメリカの人や町、自然は好きだが戦争をするアメリカは嫌いだね」
綾花ちゃん、嘉洲くん「イラクもアフガニスタンも早く戦争なんかやめれば良いのにね。」
じいじ「じいじも大賛成だ」
写真はホーチンミン市で撮影したものです。枯れ葉剤の影響で先天性異常児が生まれ死んだ子のホルマリン浸けのビンが何百とハノイ、ホーチンミンの大学、病院に保管されている。
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【思考する目】26「いっぱいの粥」 長島義明
Posted on 6月 27, 2007
いっぱいの粥、いっぱいの雑炊を求めて人は行列をつくる。満たされぬ空腹、もういっぱいの粥を求めて、再び長い行列の後にならぶ、1時間のちに、やっと手にする2はいめの椀。3度めの椀は、もう、ない。
塩味だけの粥だがどれほどありがたいことか。仕事にあぶれ、現金収入のない身にとって炊き出しは命の綱。古い昔の話ではない。現在の大阪。釜ヶ崎の公園で目にする毎日の光景。知りたくも無い、無関心な人にとり、存在しない日常。広がる格差社会。「ほっとけばいい。好きでやっている彼らの暮らし」でも、本当にそうだろうか。人それぞれ表に出せぬ事情がある。生活保護など夢のまた夢。今日、一日、命長らえる事。それがせいいっぱいの生活。いつの時代にもある。なぜ。
不満を抱く時、不安を感じる時、僕はこの地をおとずれる。生き続ける事の意味合いを再確認するために。
足の裏をかくほどの快感もないアートの氾濫。いっぱいの粥ほどの力もない芸術と云う名の洪水。
何時の間にか花嫁学校のかわりに芸術学校が出来、料理や裁縫の変わりに芸術をするようになった、何をしても芸術である。「貴方の職業は?」 「アーティスト系」 ばかばかしい、やめてくれ。
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『蒼海副島種臣 全心の書』展 短評 村松恒平
Posted on 6月 17, 2007
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勧める人あり。表記の展覧会。最終日に滑り込む。五島美術館。
副島は幕末から明治にかけての政治家、書道家。
書は自由闊達な中に、豊かなる気宇を秘める。
書体は多様。現代のデザインや、アートにつながるようなセンスもあり、大胆な書が多い。
壮気を前面に出した書よりも、本人が大いに楽しんだ気配の創意の書が見飽きない興趣に満ちている。
書にはかなり落差があり、展示された実際的な書き付けの文字などは別に面白くもない。逆にいうと、かなりはっきりした作品意識を持っていたということだろう。年代や気分によって、全く違う書を書いている。
書を見るときは、心の中で運筆をなぞるという。書道を学ぶ人だろう。実際に手を動かしている人が何人もいた。さぞや、こういう鮮やかな書が書きたかろう。感心されること請け合いである。
しかし、筆法をなぞる前に心法をなぞらねばなるまいよ、おっさん。
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【左のポケット】その9「女体盛り」 長島義明
Posted on 6月 17, 2007
まぁ、やらしい。女性を侮辱してるわ。ゆるせないわ。
まぁまぁ、そんなに興奮せんと。遊びでんがな、単なる遊び。男ってどんな人でも子供だす。温泉入ってお酒飲んで、こんな事出来たらええなー。て、男は思とるんですわ。そら、お宅のご主人の様に、珍しく真面目なお方もおられますが、それは珍種ですわ人類の。それにしても、ここのホテルのオーナー、ようやりはんなー。ここから2、3十分行くと、禅寺で有名な永平寺があるんですが。女体盛りで楽しんだ翌日は必ずおまえリしはるそうですな。色即是空言うて、お坊さんのありがたいお説教を聴いて帰りはるらしいですよ。
もう何年も前の事になりますが、世界中から著名な100人の写真家が日本に集まって、日本各地を撮影して本を出版するイベントがありました。その時光栄にも僕もその一人に選ばれ、撮影に参加しました。その時担当したのが石川県で、永平寺と山中温泉の女体盛りを撮影したんです。日本は面白い国やと思います。お伊勢参りに精進落としと云うて、飲んで騒いで、女と遊ぶのが当たり前でした。神さん、仏さんのそばに必ず飲み食いして、女と遊ぶ所があります。外国ではない事です。それだけ、日本は大らかな国や云う事やと思います
出版された本は、 A DAY LIFE OF JAPAN です。その後、パリのPHOTO
と云う雑誌にも女体盛りの写真が見開きで紹介されました。それを見た当時の
日本大使館がクレームをつけたそうです、国の恥やて。あほですな。写真に怒ってどないなります。パリの雑誌社もあきれはてたそうです。
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『Esquisse ou Croquis …?』~コラム開設について~
Posted on 6月 16, 2007
画面をご覧のみなさま、はじめまして。
”Kylin”と申します。
またまた百科事典サイト「ウィキペディア」で調べてみると、
中国の史実では想像上の動物と考えられていますが、
「Kylin」
という単語は英和辞典にちゃんと実在します。
「麒(き)」はオス、「麟(りん)」はメスを表します。
私もよく女性と間違われますが、生理学上は”おのこ”です。
このたび、投稿者として参加させて頂くことになりました。
第1稿が上がって、挨拶の順番が逆なんですけれど…。
何人かの方が「連載」の形式で継続的に記事を書かれています。
私も、コラムタイトルを決め、テーマを決めてブログを書いて
いくのに馴れてる感じですので、以後、連載のかたちで記事を書か
せて頂くようにお願いしました。
[タイトル]=【Esquisse ou Croquis …?】
・仏語で
”下書き、それとも下描き…?”
の意。
語学的に合ってるかは分かりませんが、語呂が良いので、
走ってしまいます。
[内容]=
・”Esquisse”は、建築設計の際の初期構想の意味で使います。
”Croquis”は、デッサンや絵画の描き始めの意味で使います。
「建築」という仕事上、完成された建物の外観やインテリア
よりも、工事途中を見る方が勉強になる場合があります。
芸術全般も同様だと思います。
絵画・イラスト・建築・写真・音楽・パフォーマンスなど、
その始まりや、始まる背景、始めた人物なんかを拾って
書いて行こうかと…。
私の回りには、たまたま不思議な縁で知り合った、
若い表現者の人々が何人か居ます。
いやいや、私より人生の先輩でも、新たに挑戦する人だって
居るかも知れません。
その「過程」の中に、芸術のエッセンスが詰まってるのかも
知れません。
要は…、
私にその本質を見抜く力があるか否かです。
ダメだったときは、脱線するかも知れません。
そんな”Kylin”を、どうぞ暖かく見守って下さいませ。
→→→** Links for ** ・・・
■『ウィキペディア』:「麒麟」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%92%E9%BA%9F
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電脳世代のグループ展 『臨時展示空間 「6」』
Posted on 6月 16, 2007
福岡県立美術館に『臨時展示空間「6」』を見に行った。
たまにあることだけれど、DM(ダイレクトメール)を見て「この展示は見に行かなければ」と、勝手に使命感を感じて見に行くことがある。
この展示はそういうものだった。
かっこいいDMだから見に行くとか、ちゃんとしたことを書いてあるから見に行くとか、そういうものではなかったりするから、DMとかフライヤーとかを作るのは本当に難しいと思う。
この展示は文字通り6人の作家によるグループ展なのだが、興味を引かれたのは作家が皆、僕と同じくらいの年代のアーティスト(1980年前後生まれ)ばかりだったのと、全員が福岡の人間では無かったことだ。
福岡のアートシーンというのは、小さいが故に同好会的なノリがあり、ややもすれば閉鎖的になりがちだという批判を度々聞くことがある。
それはアートシーンの中からも外からも聞こえてくることだ。
単純に、東京・名古屋・大阪あたりに比べると人や情報の行き来が少ないということも大きな要因だろう。
実際、県内作家の情報のやり取りですら不足しているのではないかと思うことも、あるのだ。
今回の6人はそれぞれ佐賀、熊本、大分、大阪出身の作家で構成されている。
住んでいる地域もバラバラだ。
だが、福岡で知られている作家はほとんどいない。
会場にはその日、国本泰英と川崎陽介の二人がいて話をすることが出来た。
どういう人の集まりなのかというのが一番気になっていたので、僕はすぐに彼らに聞いてみた。
すると国本と藤瀬大喜という二人の作家が発起人となって、主にweb上で有望と思われる作家を選んで6人展にしたのだという。
驚いた。
全員が面識のある集まりというわけではないのだという。
こういうレビューを書いておきながら矛盾するのだけれど、僕はwebコミュニケーションというのは、実のところ信用できるものではないと思っている。
単純に情報伝達という点で、何か決定的な不足があると思っていて、実際僕は過去何度も不毛な論争に巻き込まれたり、信頼していた人に裏切られたりして、どこに信用の根拠を見いだしていいか分からなくなってしまっているのだ。
だから、彼らのグループ展の成り立ちというのは僕にとっては離れ業である。
実際、参加作家はそれぞれweb上で簡単に作品を見ることが出来た。
国本はさらりと「Dragon art creator’s reviewで生島さんのレビューも読んだことあります」などと言う。
恐ろしい話である。
美術関係の人(特に僕より上の年代の人)に話を聞くと、ほとんどの人が「グループ展は慎重にしろ」という。
だが、一方で若い作家連中はweb上で知り合った人や知ったギャラリースペースなどでいとも簡単に展示を決めてしまう。
これについて正否を判断する前に、そういう現実があり、そういう現実からアートがどう立ち上がって来るのかということを僕は考えていきたいと思う。
今回はなんだか、展覧会レビューにはならなかったけれど、実はこの6人展には僕はすごく感心してしまった。
同世代の作家がいかにも今風のやり方でグループ展を成し遂げて、しかもそれぞれの作品も見応えがある。
6人の作家それぞれについてのレビューを書いても、僕は非常に長い文章を書いてしまうだろう。
特に絵描きとして感心したのは、川崎の色彩感覚、酒井の空間意識だ。
福岡の他にもこんな人たちが「地方」で創作に勤しんでいるのかと思うと、僕はそれだけで希望を得ることが出来るし、そういう人たちをもっともっと伝えなければならないと思う。
webの使い方もまた考えてみようと思う。
****************
『臨時展示空間「6」』
期間:2007.6.12(tue)~17(sun)
時間:10:00~17:00
会場:福岡県立美術館3階・展示室3
入場無料
参加作家:
川崎陽介 http://www15.plala.or.jp/DENDEN-ART/
酒井龍一
藤瀬大喜 http://rasudan.cocolog-nifty.com/
国本泰英 http://www.ykunimoto.net/
戸山亜紀 http://dropanddrop.sakura.ne.jp/
gaju≒松岡志保
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【左のポケット】その12「会議、思考する目」 長島義明
Posted on 6月 16, 2007
「会議に遅れて、あかんやないか。皆を待たして」
「すみません。交通渋滞に巻き込まれて、遅れてしまいました」
「帽子とって、早よ、座り」
「ところで、今日のテーマは何やったかいな」
「思考する目、について。と、なってます」
「ほな、始めましょ」
「だいたい、物を見る事に無関心な人が多すぎる。何も考える事無く、物を見て、考える事もなく過ごしてしまう。そんな人にかぎって、無責任にデタラメな事を話したり、偉そうに分った様な文章を書きよる」
「そうでんな。思考する目を持ってないから、そうなるのと違いまっか。文章だけやおまへんで、そんな人が描く絵や彫刻、それに写真もそうでんな。芸術や、アートや云うて、どうでもええような物ををつくり展覧会を開く人が多いでんな。ほとんど浪費でゴミを増やすばかりや」
「それを取り上げる、商業雑誌の編集人や評論家も思考する目を持ってないのと違うやろか」
「会議中に居眠りしたらあきまへんで、そこの遅れてきたお兄ちゃん」
「人間のあらゆる行為、表現は、見る事、考えるが基本になっているのに、それが分らん人が多すぎる。そう、自分の判断を持ってない」
「思考する目、を持て。云うことでんな」
「そうや。目の前の絵や写真もなにか見る人に語りかけている」
「そこの若いの聞いてるか、また居眠りしてるがな」
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