Chim↑Pom事件寸感  村松恒平

Posted on 10月 27, 2008

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 広島市の上空で芸術家集団が飛行機の煙を使って「ピカッ」という文字を描いたことが分かり、被爆者から原爆の閃光(せんこう)を連想させるとの批判を受け、芸術家集団のメンバーが24日、広島県原爆被害者団体協議会ら5団体に謝罪した。
(時事通信社 – 10月24日)

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Chim↑Pomという集団によるこの顛末について、詳細は知るところではないが、いちばん単純な見方を提示しておきたい。

それは、このアートはピンぼけだ、ということだ。
なぜピンぼけかといえば、「ピントを合わせなければいけない」という認識がないからだ。
それは方法論としてピントを合わせないということではなく、ただ自分たちが何をやりたいのか、やっているのかわかっていないで、「芸術ってこういう感じだよねー」となんとなくそれっぽいモノをコピーして、それっぽいモノを作っているからだ。

表現とは眼に見えない焦点を作り出す作業なのである。

「私」がいて、「あなた」がいる。「私」が今書いていることが、一つのきれいな焦点に収束すれば、それは再び拡散して「あなた」の心というスクリーンに像を結ぶだろう。
もし、焦点がぼやけていたり、方向がズレていれば、それはぼやけた、あるいは歪んだ像を結ぶだろう。

つまり、焦点が純粋な点になったときに、最も精度の高い像が相手に手渡せる。

作品の切実さ、リアリティは、「なぜ私はそれをするのか」「誰にそれを手渡したいのか」という点にある。

さらに、「なぜ今それをするのか」「なぜここでそれをするのか」というような点もきれいな焦点を結んだときにクリアな表現が生まれる。

今回のChim↑Pomという集団が「なぜそれをしたか?」 と問えば、「お騒がせをしたかった」という答以上のものは心に響いて来ないのである。
人の心を何か波立たせる石を投げ込めばアートなら、隣の家に石を投げ込んでガラス窓を割ってもアートである。

犬を餓死させるアートとかあったようではありませんか?
「そういう残酷なことができるあんたは何様?」とか、「それで結局何が言いたいわけ?」とか、単純な嫌悪感とか、いろいろ受け取る人の心にインパクトや波紋は広がる。
でも、それは乱反射しているだけで、不快で、作家によって完全にコントロールされていない。だったら、人がたくさんいるところに汚物を投げ込んだって、たくさんの心理的な波紋を得ることができる。

それをアートと呼ぶかどうかは、まず単なる定義の仕方である。
アートの定義を提示しないで、アートであるかないかを言っても仕方ない。

こういう人の神経を逆撫でする行為は、一般的な神経を持った人はしない。そして、アーティストは一般的な神経から逸脱していてもかまわないし、むしろ、そのほうがいい場合がある。
しかし、一般的な神経を逸脱することを仮にアートの必要条件としても(これも議論がありそうだが)、十分条件ではないと僕は考える。

では、十分条件とは何か。それを今、焦点を結ぶ、という言い方で述べている。焦点の話を続けよう。

「なぜ今か」
展示のスケジュールに絡んだものであっただろう
本来、広島に原爆が投下された8月6日に行われるのがベストだろう。
そうすれば、よりテーマとのタイトな関係を作り出しただろう。
したがって、これも焦点を結んでいない。

「なぜここで」。
これは広島で行う理由はあったと言える。しかし、ここだけリンクしていることはかえって事態を悪くした。
たとえば、これが東京やニューヨークの上空で行われれば、まったく別の効果と意味を持っただろう。それなりの下ごしらえがなければ、完全にスカだったかもしれないし、もっと大変な社会問題になったかもしれない。
つまり、場所も重要な焦点なのである。

「誰に手渡そうとしたのか?」
平和的な意図を述べながら、結果的に市民や被爆者たちの感情を逆撫でし、さまざまな反感を喚起した。
もし、平和を訴える意図なら、むしろ世界に向けて発信すべきだろうと思う。
それは被爆国として、すっきりとしたベクトルである。
「ピカッ」という日本語ではなく、英文字であるとか、絵文字であるとか、このような直接的なメッセージではなく、シンボルでもよかっただろう。

つまり、このようなコンセプチュアルなアートは、コンセプトの段階でいろいろな可能性があって、どこで成立するか、という微妙な焦点を探すところに作家の仕事がある。別に自分で飛行機を操縦したわけでもないだろうし、他に何の芸もないのである。焦点を探すことくらい最後まで詰めろよ。

世間でこのことを論ずる人は、すぐアートと社会規範の関係の話をするが、まずはっきり言わなければいけないことは、この人たちのやっていることはアートとしてダメ、ということだ。
そのことをさえはっきりさせれば、後は当事者たちがどういう成り行きになろうが、大したことではない。

この事件の副産物は、現代アートは、ピント外れのモヤモヤのまま、なんとなくなあなあで流通しているという事態を暴露してしまったということである。

切実な「私」も「あなた」もいない。「今」でも「ここ」でもない。裸の王様のような現代アートをわかったふりしてモヤモヤと受け渡しするのはいい加減でやめたほうがいいと思うのだ。

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視力の精度はどこまで必要か?  むらさき

Posted on 9月 24, 2008

見える?見えない?

(0)プロローグ

「実は、乱視が悪化していました」…
乱視とは形の像が歪んだり多重に見えたりすることでございます。
聞くところによると、生物の目は完全ではないため万人が乱視の要素を持っている、なのだそうですが、乱視を問題にせねばならない方とそうでない方がいらっしゃいます。程度や角膜の歪み方の差ということになりますでしょうか。

わたしは乱視の為に主に仕事ではなく日常生活において支障を来しておりました。
特徴的なものとしては「光を放つものの形をとらえるのが困難」ということでございます。
1) 夜の車道の矢印青信号が認識不可。右折?直進?
2) 街灯がまぶしく視界がにじむ。
何より悲しかったのは、
3) 星や月がおよそまともに見えない。
ということでございました。

(1)問題提議
何度も夜空に目を凝らして眉をしかめているうちに、ふと思いました。
『まともに見える』とはどういうことなのでしょうか。

(2)具体例
まず視覚の状態について整理してみとうございます。
・より間違った捉え方 ⇒ 単純な分類:見える人・見えない人。
・より適切な捉え方 ⇒ 視覚障害における種類は多種多様。
ex. 先天性と後天的な障害/全盲・色彩や形、視界に障害など…
そうしてみますと、一言に「視覚に問題があると日常生活で(自他共に)認識している方」と申しましても、ちょっと想像を軽く越えた個々様々な物の受け取り方をしておりましょう。
そこから展開して、最も視力の障害として身近に聞こえる「近視」のおよそあらゆる段階も含めてしまいますと、 [視力の限界は十人十色] ということではないでしょうか。
つまり乱暴に括ってしまいますなら、
「視覚による認知なんて人それぞれ」
ということになるのではないでしょうかと、まず申し上げます。

(3)現状
わたしは美術造形、デザインに関わる者として名乗り、仕事を致しております。
「乱視」というもの=「ものの形が歪んで見える症状」についてはネガティブなイメージを認め、隠す必要性がございました。

その理由をまた整理致してみましょう。
「乱視」つまり上記の特性、ゆえに真円が真円に見えず、矩形の直線と比率が捉えられないと他人に思われる可能性がございます。
としますと、
ギャラリスト・デザイナーという専門職として、職業上の能力を疑われることを恐れるのは当然至極でございます。イメージだけでもよろしくない。
ですが、
多少の乱視を持っている人は実に多いというのもまた現実でございます。
職業上のことを申しますなら、専門職にも、またカスタマ、エンドユーザである一般の方々にも、乱視は存在するのです。多なり少なり。
では専門職の、視覚の認知の精度に関してどこまでが必要条件と規定されるのでございましょう?
わたしは、視覚の何をよすがに胸を張って芸術やデザインについて語れるのでございましょうか?

(4)視覚認知について考察:見るということ
一般論の方にシフト致します。
数学上での円や線と、三次元上の円や線とは、区別しなければならない、ということをまず挙げなければなりますまい。
例として、ポスター等の印刷物・コンピュータディスプレイの画像は、ぱっと思い浮かべた折、まず平面の上に展開される二次元の情報に見えるやもしれませんが、あらためて規定しますに人間の構造上は三次元として捉えております。
そこには素材があり、構成する物質があり、それを空間を介して視覚で捉えているからでございます。

ですから、デザインで取り扱うことに限定しますならば「直線」はどれほど厳密に細い直線でもコンピュータで作画したものでも「面」であり、更には顔料や繊維や液晶の画素が構成しておりますので実は「立体」であります。
理論上の所謂「正確な円」や「正確な矩形」は、ギャラリーでわたし共が扱う美術造形とは異なる概念上の存在。わたし共が扱っているのは「より、正確であるように見える立体」なのでございます。

理論上正確ではないと把握したところで「正確らしくあること」は追求せねばなりますまい。
ではどこまで「正確らしさ」=「精度」が必要かという問題がここで発生します。
またそれをどのような他者と共有することが可能かという問題が、(3)にも関連して浮かび上がって参ります。

(5)ある写真家の例
わたしの友人をご紹介したいと存じます。
彼は写真家です。とても繊細な心の持ち主で、わたしは友人でありつつその作品のファンであるとも申せます。

彼を悩ます現象がたまに襲ってくることをわたしは個人的に存じておりました。それは、視覚・聴覚・嗅覚・触覚…すべての感覚が脳内の処理許容量を越えて、怒濤のように流れ込んでくることがあるということ、でございました。…少なくとも彼の説明を聞く限りではそうでした。
そのことはしばらくして医療機関の検査の結果裏付けられたのでございます。

彼が話してくれたことが、非常に印象に残っております。
そのような症状が彼を襲ってきて、視覚の精度と情報量に耐えきれない時、彼はなるべく暗い部屋に閉じこもる、どうしても所用がある場合は、目を閉じて外を歩くと。視覚以外の情報も持て余すほどに入ってくるから、目を閉じても外を歩けるということなのでございます。
わたしには、彼の悩みを共感できるなどととても申せません。
彼が捉えている世界を知ることはできませんのです。

ただ一つ、存じています。
それは、彼のセンスとものづくり(写真撮影・表現)は視覚にほぼ依存して成り立っているということの一方で、彼が一人の人間として生きる上で視覚が障害になることがあるということでございます。

写真 ─ 視覚に依存した表現。
彼の中では写真という表現に落とすことによって精度と情報量を抑え、多くの他の人と感覚や感情を共有することが可能になるのではないかとわたしは推察致します。
感情を煮詰めて情報量の精度や密度を高めて制作をなさる作家の方とは、プロセスが逆であるという点、わたしの関心を強くひくのでございます。

(6)空間認知について考察:再認識のススメ
前述(4)で空間という言葉が出て参りました。
人間は空気に満たされた地球上に生きるという大前提がございます。
また、情報を交換する上で視覚の占める割合が大きいという小前提がございます。
・光/視覚情報
・振動/音
・温度
・湿度
・におい
…これら多くの情報を、人間は
1) 全身で受け止めている。
2) 自らも発している。
と考えられます。おそらく視覚以外に発している情報は、自らが自覚している以上の働きをしていることでしょう。
専門家はそれを自覚的に行わなければなりません。印刷物には形や色のみならず素材感や手触りがございます。それは同じ空間の中で、受け手がこれまで経験してきた蓄積が、見るだけでも知らずに手触りなどを認知している場合があり、また実際に触れるものはその感触が感情に働きかけ等を致します。

また、人々は、空間が視覚に作用しているということを知らず知らずの内に知っているはずなのでございます。もしかしたら忘れているかもしれません。
しかしたとえばいつもメールをやりとりしていた相手から電話や手書きのはがきを受け取ったり、会った時の声の調子や話す速度を耳にし表情を目にした折に、何か感ずるところあり、といった経験は多くの方がなさっているのではないでしょうか。ですからはがきの感触や季節感を大切にしたり、会ってお茶を飲む時間を大切にしたり、笑顔を作ったり笑顔になってしまったりするのではないでしょうか。
専門家が必要な自覚はたとえば、作品について電話でインタビューをしたりよく出来たカタログを観たりするのと実物を観ることの違いをよく心得ておくことであったりします。作品はその置かれる場と観る人間の目なくしては作品として成り立ちません。

そこで、視覚情報を成形・売買して生業にしている人間は、作家、デザイナー、ギャラリストなどたくさんおりますが、その商売のお相手は同様の人種であったり一般大衆であったりします。
(2)で申しました通り、いかな工夫して作っても受け取り方は人それぞれでありますことを了解しても、わたし共の仕事における視覚情報の割合はやはり人並み以上に大きい。
そして尚の事その精度を問われることは必然で、完璧が存在しないことを承知の上でぎりぎりまで尽力せねばなりませんので、わたしも悩んで当たり前なのでございます。
しかし、日々に二次元・いや三次元の情報の精度を詰めることに追われるが為に、「他者との共有は常にとても不完全である」ということ見落としがちなのではないかと、ここに疑問を提示致します。
そして提言致します。

「まず空間あり。そして光を知る」

(7)結論
再認識した上で割り切ってなすべきことをなすべし。
大した結論ではございませんが、腹を括れということでございます。
わたし個人に関しましては、治せるなら視力を治し、矯正視力も最善の策を取ります。
オールラウンドに同業の方々に関しますならば、できることとできないことの区別、人間の目には限界があるということを自覚してどなたとも接するとよろしゅうございましょう。
言い換えますと、マルに見えてもその実態がマルでないというわきまえが必要だということ。わたしとあなた(あらゆる人)が同じものを同じようには見ていないというわきまえの上で努力する、ということでございます。
重要なのは、『まともに見える』のではなく『まともに見る努力』を黙って行うことでございます。

(8)エピローグ
矯正視力を調整した後、迷いながらもわたしはカミングアウトを致しました。
「実は乱視がひどくなっていたのですが」
笑い顔でそんな話をするようになりました。

その少し前のことです。
眼科の廊下で、矯正用レンズを慣らす為に数分待たされている間、きょろきょろとあたりを見たわたしは心底驚嘆致しました。それは、今までぼやけていたピントが合ったなどということではなく
「世界はこれほどまでに奥行きがあったのだ」
という感動でありました。お手洗いまでの短い廊下の突き当たりをまじまじと見つめておりました。
わたしは視力を落としたことで形よりも空間を失っていたことを思い知ったのでございます。
・そのことを忘れ去っていたこと
・目が良いままであれば気づくこともなかったかもしれないこと
に恐れを抱いてこの文章を書くに至ります。
(おまけ)
今も、新しい眼鏡やコンタクトレンズの最適な矯正視力を持ってしても、満月と十六夜の違いがいま一歩、識別できる自信がございません。暦を知っているからこれは満月に違いないと踏むものの、やはり秋の暗い夜空にくっきりと明るい月の光はなにか怪しくゆらゆら致します。
わきまえを持ったつもりでもやはりマルがマルとして見えないことは、恐ろしい。
己が見ているものがいかに丸く見えても…。
お月様は、そのようなことで悩んでいるわたしを見下ろして悠然と笑っているように見えたのでございました。

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「わからない」と言えますか  むらさき

Posted on 7月 2, 2008

あちらを向い海舛蕕鮓�

某美術大学の某教授が、ある抽象造形作品を観て
「わからんな」
とはっきり仰ったことに些か驚愕致しました。
この方がそのような方だということは存じておりましたが、今更ながらに。

「わからんな」
と申しますのは
「何を表現したいのか理解できないし何かを汲み取る気にもならない」
という意思表示でありました。

この方を「某」と表現致しますが、別段なんでも構いますまい。
准教授であろうと、著名デザイナーであろうと。
美術の世界でとりわけ肩書きや立場にしばられる位置にあっての発言に変わりはありませんから。
しかもこの教授は、美術界を揺るがす名物としてお金であちこちに引っ張ってこられる方ではなく、ご専門の研究はきちんとこなす方でいらっしゃいます。
自由奔放変人ぶりが売りというわけではいらっしゃらないのです。その分、本当に思ったことしか口になさいません。

その造形作品は、明快なメッセージを理解されようという意図は見てとれぬ、むしろ造形の特性と心象表現に重きを置いており、そうした実績で受賞歴などのある作家のものでした。しかしながらあらためて、このような奇怪な色・手触り・形態のものが評価されるとは、「美術」とはなんぞやと考えます。
イメージの上で個々に齟齬があるのはもはや当然のような存在。
そうした作品です。

美術の世界に身を置く方に、お聞きしたいと存じます。
誰を前にしても、一見不可解な造形物に関して
「理解できない」
とはっきり言い切れますか。それとも、理解できるふりをしますか。何か糸口を探しますか。違う切り口を探して長い批評表現をなさいますか。

次に思いましたのは、特に美術館に頻繁に足を運ぶというわけでもないごく一般的な市民の方々が、そのようなとっかかりのない抽象造形作品について、
「わからない」
と言えるかどうかということでございました。

わたくしが接した中では、お客様の言葉には
「わたしなどにはわかりませんから…」
というような口調に妙な申し訳なさを感じ取りました。
またもっと進みますと、『わからない』という言葉すら口に出せない方もいらっしゃいました。
非具象をお嫌いな方は、お話をうかがっておりますときちんと持論を展開なさいます。そういった愛好家の方の強い口調の裏にも、『わからない』と口にする恐れのようなものを感じることがございます。

わからないこと、理解できないことは、悪いことなのでしょう。そしてとても格好悪いことなのでしょう。
誰かがそのように決めてしまったのに相違ありません。
おそるおそる、わからないという意思表明されたお客様に対して、果たしてわたくし共のような『美術サイド』の人間が
「そうですよねえ、これは全く理解不能ですね」
と言えますかどうか。試されているような気も致します。一方、画廊に足を運んだのに
「つまり、わからなかった」
とお話をしただけでお帰りいただくのは、お客様のおみやげとしてはあんまりだという思いはもちろんございます。
ですから『わからない発言』はあくまで前提に過ぎず、その先に本当の思いを発言する自由があるのだと存じます。

「何故、わからないか」─ この方向に話題を掘り下げてゆけば興味深い対話は可能です。しかしそんなに深く長い対話を、お客様が、通りすがりに立ち寄った画廊でお望みになるでしょうか。
一方、そのような可能性を知っているお客様なら既にどこかに扉はあるのです。
ですから要する時間の長さの問題ではございません。

美術に携わる人間として、またどのようなお客様にも接する専門サイドの人間として、自由とは何か、「わからない」とは何か、考えさせられたのでございました。

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「なに流」作法  むらさき

Posted on 6月 7, 2008

His way of life, is it beautiful or not?
二流、三流の芸術家という方々が、とても難しくてあらせられる。
ここでニとか三という言葉を使うのには、ただ単に芸術性のレベルを段階状に分けているわけではない。
私がここで述べたい方々とは、
1. 作品がよく売れ
2. 時には専門家として招聘されることもあり
3. どこでも先生と呼ばれ大概もてはやされ
4. しかし「一流ではない芸術家」
である。
1から3はある種の実力を指している。にも関わらず4が重しになっているので『自分はそもそも芸術家などと名乗るようなアレではありませんで』と自認されている方も是非下記の部分にご注目いただきたい。

「一流」の芸術家は自己の確立に自信がある。
そうでない芸術家は不安がある。自己を確立するための攻撃をしたり、陰口を叩いたりする。
「一流」の芸術家は、己の利害や芸術性に関わりのないことは目に留める必要がない。広い視野で世界を見ている。たいしたことのない小物は眼中にないし相手にしている暇もとらない。小さい活動をしている人でも評価することができる。
そうでない芸術家は活動が小さくても小物でも目障りな人間に過剰反応する。ヨソの美術関係者のすることに横から口を挟んでみたり、手間と時間をかけて関わりのないことにクレームをつけてみたり、怒鳴り声をあげてみたりする。

大きな声を出すなんぞ。そんな労力を何のために割くのだろう?考えあってのことか、実は衝動ではありはしないか。誰のため社会のためだと誤摩化し、根底には錆び付いたプライドがありはしないか。

プライドは重要なものだ。あって有害ということはない。
ただし自分をただ支えるだけでは脆い。多角的に見ること、どんな相手とも人間として対等であることにおいて行動が縛られず自由であってこそ、強くて輝きがある。
自分をこう見たいから、こうあらねばならないからという焦燥。それはたとえばの話、「先生」と呼ばせるために一言口出ししたり、青二才にわざわざ謝罪させるため根回ししたり。目障りであればどんなに目下に見ている相手でも放っておくということができない、であったり。
立ち位置を確保するがためのプライドがこりかたまっている、そのことはおそらくコンプレックスというものの両面である。
そしてプライドとコンプレックスの上にいろいろ積み上げ過ぎて、今更土壌を変えられないという事態にもなっている。

プライドもコンプレックスも自分を立ち上がらせるために雑念を呼ぶ。生き抜くために。無自覚であるか、自覚的であるか。無自覚にその上で行動している限り「一流」にはなれない。住む世界が違う。数々の分岐点で、自分がよって立つことのできる狭い世界への道を選んでしまう。

青二才の不肖わたくし、芸術にも「流」があると学んだ。
まず始めに述べた通り「一流」とそれ以外。そして、さながらお作法のように地域やグループ・派閥ごとに「流」がある。その「流」において「先生」は上の方に鎮座しておられるらしい。青二才が「流」に倣わないと「先生」はご機嫌を損ねてしまわれる。ただし対面の口ぶり程度ではご機嫌は測れないことも多い。自分自身を売り物として必死に生き抜いてきた営業マンとしては実に一流なのだから。
わたくしも芸術活動運営サイドの一人として、いくらかの「流」とお付き合いをさせていただいている。諸先生方の教えを頂戴し、ご親切には心から感謝を申し上げ、精進している。ただしわたくしに関する苦情はわたくし自身ではなく上司に来る。所謂、会社組織の中で部下の処分について責任者である上司に苦情がいくのとはまた違う意味であるようで、ややこしく。
その苦情には多なり少なり『私を立てろ』『目障りだ』という臭いがする。作品が引っ張りだこであるだとかの実績は実績として、臭い人間を眺める思いは青二才ながら冷ややかだ。

わたくしは、お作法を学ぶことに努力を惜しまない。わたくしもこの世界に生きる決意であるから。しかしどのような価値観に身を沿わせて日々行動するのか全くの無自覚でいては、どれだけ成果をあげても「一流」とはおよそ縁がないまま一生を終わるだろう。
その意味するところは、自分が取り扱っている作品や人や感情や社会の、本当の価値を理解できない人間に成るということだ。感動する心を喪うことだ。

これは、おおいに皮肉の記事である。と同時に、挫けたり立ち直ったり笑顔を作って見せたり口上を述べたりする内に、徐々に強いプライドが形成されつつある自分自身への厳しい戒めである。

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「意図されたものとされないもの」 伊藤寛明

Posted on 3月 3, 2008

都市部で生活していると、身のまわりを「意図されたもの」に囲われていることに、たまに息苦しくなってくることがある。街中を歩いていても、あらゆるところに設計者やデザイナーの意図を感じ、モノの納まりに「へー」とか「ほぉ」とか「やるねー」と関心する時もあれば、そんな日々がしばらく続いたりすると、ある時から飽和状態になり、「もういいよー」とうざったく感じる時もある。新聞に挟まれてくるデザイナーズなんとかの折込広告や、雑誌のデザイン関連の記事さえも身体が受け付けなくなるのである。

一方で、意図されずにそうなってしまった(かのような)モノのあり方を街中で見つけた時には、小躍りして喜んで思わずカメラを向けてみたりもする。要は、意図されたものとされないもの、そのバランスの中で日々生きているのだなとつくづく思う。

休暇と称し、都市部から自然の多いところへ行く。海を眺めたり、田んぼのあぜ道を歩いたり、森の木々の間に佇んだり。総体的に自然といわれるものは、人の意図が入っていないからこそ、癒されたり、リフレッシュすることが出来るのだろうと思う。もしくは、意図されないものに惹き付けられるのは、都市部に生きる人間の性なのか。厳密には、田んぼや山林には人の手が入っているから少なからず意図は入っているのだろうけれど、自然の、人の意図では管理しきれない部分が、四季を通してその意図をどんどん薄めていく。だから意図されてあっても癒されたりするのだろう。

もちろん今では地方の幹線道路沿いは、意図されたもの、しかも決して見栄えの良いとはいえないもので埋め尽くされているけれど、逆にキッチリカッチリとデザイナーにデザインされていないユルユルな感じが、まだ気持ちにゆとりを生むのかなと思ってみたりもする。

これは、設計という「意図する」行為を日々行っている中での、自問自答に過ぎないけれど。
「意図されないもののように意図することが果たして出来るのだろうか。」
そんな疑問から発して、この春、作品を創ってみたいと思っている。

意図されない感じを、いとかんで。(←それが言いたかっただけか!)

(画像:海は意図されないものの最後の領域だろうか?)
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日常にもっとアートを。 よいち

Posted on 2月 21, 2008

二月の中庭

昨日、当ギャラリーの展覧会会場にお越しになったお客様 Tさんと、ひときわ大きな油彩の抽象画を前に、しばらく話し込んだ。
Tさんは、展覧会のたびに足を運ぶのを楽しみにして下さる常連さんのおひとり。そして、何度か作品をお買い上げいただいた方でもある。

Tさんは、首を傾げていた。
「韓国のドラマを好きでよく観ているのだけれど、その背景に、家の中のちょっとした壁などにね、こういう気の効いた現代アートの絵画が飾ってあったりするのよ。ほんとに何ということのない主張するというわけではない小さいものだけれどそれがとっても素敵なの。
日本のドラマを観ていてもそういうものはないのよね。もっと普通に、現代美術を採り入れればいいのにね。なぜやらないのかしら」

そこで私も首を傾げて、ふたつの仮説を挙げてみた。

(1) 韓国では、実際に中流階級以上の家庭で、日常の中でアートを採り入れるハードルが低くなっている。

これは近頃私の中でちょっとホットな話題である。
船橋市民ギャラリーで連続講座「市民が育てる文化施設」の初日、 2008年2月13日に第1回「上海アートシーンと新しいアートスペース」が設けられた。
Nam HyoJunさんの談話から、アーティストの活動しやすい海外の現状(上海、北京など)について語られたというログをネットで拝読した。
日本で現代アーティストが活動しにくい背景は、生きにくさや刺激を求めて海外に出てしまう作家もいること、その支援団体すらあること。
それらを考えれば、ある程度は想像にかたくない。

次に

(2) 韓流ドラマとして日本で放映されているのは、韓国の現実の日常よりはかなり夢物語という世界である。

つまり、日常では実際にどうかということはわからない、という前提である。

そうすると、日本では夢物語のようなドラマはないのか?
あるだろう、とTさんと話し合った。
リアルであることが好まれる最近のドラマの傾向がある面では事実だとしても、たとえば「月9」という時間帯が特別であったりする事実もまたある。
その特別さはスタイリッシュであること。高級さや豪華な生活ではないが、格好のいいキレのいい人間の生きざまや生活風景である。
まさに中流階級ちょっと上、といったところだ。
しかし、その日本の夢物語には、現代アートの額が飾られることはないようだ。
注記しておくと、Tさんの提供した話に依る根拠であって、私は月9をこれまで網羅してきているわけではない。ただしTさんにはそこが非常に違いとして気がかりであるようだった。
なのでこのまま、その雑談から先へ進む。

たとえば日本のドラマの小道具や美術は、小物づかいがとてもうまいと思うことがある。「粋」「趣」という言葉がしっくりくるような。そこにはしっかり技術と資金を投入しているから嘘がない。
でもその「粋」「趣」に、なぜか現代アート作品が見当たらない。
Tさんは、
「たとえばこの作品だって、背景に置いたら素敵だし、お値段だって私が買える範囲なのに」
と、大きな作品に挟まれて展示されている、規格より非常に小さい正方形の油彩画を指した。

『アートを買う』ということについて、慣れない人にとっては相当なハードルがあることを、画廊にいると常々感じる。

このたび、Tさんは、ちょっとしたコラージュの作品を一点と、版画にペイントを加えた小作品一点をお買い上げになった。
どちらも、プレゼントにしたいということである。
Tさんのお買物はいつもそのように、相手に負担にならない金額と相手の年齢や好みを考慮して、しばしばプレゼントとする。

そういうことは、誰かにものを贈るときに誰でも考えることだ。
金額は、アートだからといってとびぬけた価格を選ばなくても良い。今回のTさんだって一作品につき2万円也、である。
その気になれば、アート作品を手にすることは、ちょっとした本革のバッグや靴を買うことや、好みのブランドのワンピースを買うことと、金額的にそれほど差があるわけではない。
そう、Tさんと一緒にうなづいた。

価格の話を進める。
ある美術関連のネットサイトで、
「美術館のミュージアムショップでの買物」
という話題に関して、
「自分の好きな著名な作家の実物作品は買えないが、そのリトグラフは好んで買う」
という回答が目立ったので興味をひいたことがある。
さて、『著名』な『リトグラフ』、幾らぐらいの値段をするのだろうか。

リトグラフもとても精巧なものは出来が良く、所有することは非常に楽しいことだろう。
ここで注目したいのだが、同じ価格で、作家が作った生の作品を手にすることはまた別の喜びがあるのではないかということだ。必ずしもその作家の名前を、国立美術館で見かけたことがなくても、である。

たとえば、Tさんと眺めていたその作品、
「こういうとこがね。いいよね」
と指で空をなぞったあたりは、油彩のマチエールのビビッドさが繊細かつ個性的で、とりわけ作品を魅力的に構成しているところであった。
油彩に限った話ではない。版画にも水彩にも、立体にも、どんなに精緻なつくりであってもそこには作家の指づかい、息づかいがある。
その作品を手から手に。
あるいは自宅に置いてみたり、あるいは人に贈ってみたりと渡ることは、本当に生きたコミュニケーションだと思う。

話題はさらに広がる。
よく、お客様から『絵をかける場所がない』というお話をうかがう。
ご来場の方の中には、ギャラリーでの挨拶・常套句として
そう口にされる方もいらっしゃるだろう。
だが、本当に魅了されて、何度も同じ作品の前に行きつ戻りつし、それでも最後にこの言葉を発して残念そうに去ってゆかれる方が事実、いらっしゃる。
その作品は必ずしも、号数万からといった銀座の画廊さんがバックについているような作品ばかりではないし、日本指おりといった作家というわけでもないのである。
絵を買ったことがないのでどうしたらいいのか、高い買物なのかどうか判定しかねるのではないかと、お話をうかがっていると推測される。

Tさんのような買い慣れた方や、作家さんご自身など、さまざまな方からアイディアを頂戴しているので、私もプレゼンテーションすることがある。
西洋的な建築の何もない壁のようなものが必要大前提と想像するところからつまづいてしまっているのではないですか…というふうに。
ある方は、階段の手すりに平面作品をかけていらっしゃるという。
ある方は、トイレの中が家の中でもっとも芸術の場であり、安らぎの場であると、冗談混じりの本気でおっしゃった。
多分、いろんなご家庭で、ちょっと素敵なカレンダーを年末にいただいたりした折、これはどこにかけようか、と思うことがあるだろう。
それと同じ感覚で良いのではないですか、と。
そして、たとえば花の絵のような季節ものなのだとすれば、花瓶に飾る花と同じに季節が過ぎたらそっとしまって、またひと巡りした頃に出しても良いのである。家の中の日常風物詩になりうる。

きっと、身近に存在する日常の現代アートへのハードルを下げる余地はまだまだある。
一介のギャラリー勤務なる私にできることは限られているが、お気に召した作品を前に
「素敵だね」
とお客様の笑みがこぼれるのを見、さらに言えば作品をお買い上げいただいて本当に嬉しそうなお顔を見、人と人をつないだ実感を得るのが何より嬉しいから、努力は惜しまない。

日本の現代アートにエールを送ろう。
そしていつか、Tさんが気の効いたドラマの美術スタッフを褒めて、喜んで私に話をしに来る日が、来ますように。

ところで、この文章の中で、「美術」と「アート」という言葉を使い分けた。その違いについては、またいずれ。

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素の自分を掴み取れ よいち

Posted on 2月 3, 2008

電線に縛られる空はそれでも遠い

陽が陰ると、しんしんと冷える空気に思わず、足踏みをする。信号待ちの歩道で、伝統的ともいえる寒さへの反応。
それでは物足りなくなったか冷え込みで理性が吹っ飛んだのか、ある秋の夕暮れに、ピンヒールの靴のまま突然アスファルトの道を全力で走り出した。信号を渡ってもなお走った。

それをきっかけに、しょっちゅうそこら辺で走るようになった。大抵は通勤の途中や買物の途中。体脂肪対策などではない。あることに気がついたからである。
「あの角まで走る」とか、「50mは走る」などという目標は持たないし短距離だからって息も止めない。
むずむずとした衝動を捉えたらすかさず駆け出して、脳の中にむわっと快感が湧いた瞬間『そのとき』に足を止めるのが肝要である。

私はその瞬間の自分を、最も素の自分だと思う。
性格も価値観も生き方も私そのもの、ただし何の感情も持たないフラットさ。感情をかきたてたり吸い込んだりする構えすらしていない状態。
芯はある。なんでも来い、である。機嫌は若干良い。
そして、その状態でこそ芸術作品の前に立ちたいと強く願うのである。

作品の前まで疾走できればいいが、美術館の中で作品の数だけ無心に駆け回るというのは現実的ではない。その状態を身体で覚えて、好きな時に再現できるよう刷り込んでおく方がいいのだ。
緊張が苦手だからって、舞台の上に布団を敷いておく音楽家がいないのと同じである。

作品の展示にはキャプションというとてもとても気になる存在がついて回る。展覧会コンセプトや作家の画歴が展示場の入口に掲示してあることもある。
なんて、重くのしかかる紙一枚二枚。
むろん無視する気はないが、まずは何も先入観や身構えのない状態で作品に向き合いたいというのが十何年も前からの私の願いであった。
可能な限り、文字をひとつも読まずに観て回ってから、あらためて文面や作家に目を向けてゆっくり巡回し直す。それができれば一番良い。

それでも己の無知無学に不安に揺らいでいた頃の私の、そうした観賞の姿勢を応援してくれたのが「なぜ、これがアートなの?」という展覧会だった。
水戸芸術館が川村記念美術館、豊田市美術館と共同で企画し、同名の著作で有名なアメリア・アレナス氏のバックアップのもと1998年から1999年にわたり開催された展覧会である。
もっとも、そういった事情はあとで知った。
何よりショッキングだったのは、何度も足を運んだことのある水戸芸術館の会場内、有名な作品も多く展示されているにも関わらずキャプションが一切掲示されていなかった。当時の私の言葉でいえば「とっぱらってしまった」。
ああ、これでいいのかと思った。肯定されたような気がした。

しかしながら、キャプションとそこにある作品背景や作家の人生はその後も常に気になる存在だった。見まいとしてもつい覗き込んで、果たしてどこからどこまでが自分本来の思考、視点なのかと疑問を抱いた。
とにかく私が最も欲するところの観賞体験とは切り分けなくてはならない。まるで自由に作品の前で泳ぐような、あるいは自意識と感情の海に深く潜っていくような体験、それは一旦作品の前で逃してしまうとなかなか手に入らなかった。

また展示サイドにも、作品は観賞者の自由に委ねるという方法論の一方、作品の背景に関する知識は観賞を深める上で必要という方法論もあり、それらは拮抗しつつたびたび議論を呼んでいることも知った。ギャラリートークにおいては「対話型観賞」と「解説型観賞」と呼ばれる。

美術を学ぶ身になり、一観賞者から観賞者と作家をサポートする立場になり、さらに自分が値踏みさえしなければならない身になりすると、文字列を目に しなくとも作家の経済的背景から生み出される価格やら、技量やら社会的立場やら、考慮せざるを得ないことが多く、仕方なかった。

私の、ただ感情を揺さぶられるというひたすらシンプルな観賞の楽しみはどこへいったのか。

そんなある冬の日に、寒さのあまり走った。これだと思った。
好きな分だけ走って快感を得て、そこで必ず足を止めるのは、それ以上走ると余計な欲が出てくると知ってのこと。
走りやめた時の私は、なんの感情もなく計算もない、32年間生きてただここにいる素の私それだけだった。

ああ、このままビューンと美術館やギャラリーへ飛びたいと、何度思ったろう。
その代わり私は今日も白い息を吐いて突然走り出す。
近所の人が眉をひそめようが、ヒールを排水溝にひっかけようが、走る。
毎日、頭や身にまとわりついてしまうややこしいものを、毎日、片っ端から道に落としていく。
この感じを忘れず、掴みとるため。

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批評を考える 村松恒平

Posted on 11月 9, 2007

20071109mura1.jpg

「美術の世界」というものがあるとすると、僕はその隅っこのほうにいるアウトサイダーだといえる。

その隅っこのアウトサイダーから眺めていても、美術の世界は狭いなあ、ということが実感されてきた。そもそも美術関係の大学は限られている。そうすると、4,5人関係者が集まると、だいたい大学の先輩後輩の関係が存在することになる。そのほかにグループ展などのラインもあり、活動的な人同士はあっという間に知り合いになる。
「知り合いの知り合いの知り合い」くらいまでいくと、ほとんど全美術界を網羅できるのではないか。

こういうところで、公正な批評をするということはたいへん難しいのではないか、ということをずっと考えていた。
映評や書評であれば、批評者は作者と会うことは稀である。もちろん、地位や影響力のある批評家になれば、それなりのしがらみが出てくる。映評や書評だってそういう意味で決して公正であるとは言えないのだが、美術はもっと狭い。
なにしろ個展にでかければ本人がいるのである。
本人がいれば、挨拶もするのである。そして、初対面でもすぐに共通の知人のことなどに話が及び、親しげに会話をする。そうすると情も移り、また狭いコミュニティの住人であることを確認するのであるから、「**氏も若いときは情熱的に新しい美の領域を開拓して来たが、今度の個展の創造性の感じられない悲惨な自己模倣には胸を塞がれる。成功しても耄碌はしたくないものだ」というようなことは書きようもないのだ。

そうすると、批評者は自分が「感じたこと」をベースに書かなくなる。作者の実績やデータ、それまでに作者について書かれた他人の記事などを確認して書く。それから、その作者の作品を何年も何十年も追いかけて見続けている場合には、そのことも必ず強調しなければならない。
初期の作品から現在に至るまでの変遷を自分は見続けたということを強調しつつ、知的で的確な語彙と流麗なレトリックで、一人の作家の発展と進化の歴史を物語にして見せなければならない。
それが「感じたこと」の代用になる。

こう書くと、激しく否定しているようだが、そうでもない。
むしろ、それでいいのではないの、と思うようになったから、ついにこの一文を草しているといえる。
「感じたこと」で批評を書け、というのは、プロレスに毎度セメントマッチを求めるプロレスファンのようなものだ。
美術批評なんて、どうせ関係者しか読まないのである。関係者が関係者について書いて関係者が読む。企業でいえば、社内報のようなものである。
それにはそれなりの機能があるだろう。

みんなツルんでいるのである。
芸術や表現はもともと、はみ出し者の領域であると僕は思っている
それをもっと、歴史的に容認された基準が積み重ねられているもの、知的で高級なもの、一つのコミュニティの中で確認しあえるもの、ビジネスや行政の基準で測れるもの、のようにふるまう人が出てくるのは仕方ないことだ。ツルめばいいさ。

はみ出し者もまたムラを作る。
僕はそのムラからもまたはみ出していたい。

昔の人は言いました。
「連帯を求めて孤立を恐れず」

表現者なんて、どうせ孤独なんだからさ。
楽しくやろうぜ。

【写真は村松恒平『人々(輪郭を失っていく)』部分】

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「金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか? 芸術という例外的経済」2007/6/6のシンポジウム・レポート 村松恒平

Posted on 6月 15, 2007

「金と芸術」は、いま芸術に関わる人々にとって、関心の高いテーマだろう。リクエストもあったので、このシンポジウムで語られたことについて、ホットなうちに簡単に概観しよう。
ただ有用な情報であっても、あまり細部は拾わない。興味がない。だから、情報を求める人には、あまり律儀なレポートにはならない。
このシンポジウムは、基本的に全員が個別テーマを持ち寄り、自分の与えられた持ち時間を話すというスタイルであった。
それぞれが話したテーマについて総合的な観点で語り合ったり、もっと絞ったピンポイントなテーマについて、突っ込んで話し合う時間はもたれなかった。
ないものねだりをしても仕方がないのだが、ひとりひとりに割り当てれた時間が長く、冗長であったり、同じ論旨がくり返される部分があったので、その部分をカットして、全体を短くするか、討論に当ててほしかった。

司会の上田雄三氏は、温厚そうでバランスのとれた紳士という印象であった。中国のアート市場の過熱ぶり、狂乱ぶりについて、具体的な体験をもとに語り、それなりに貴重な珍しい話であった。
本の翻訳者の山本和弘氏は、上田氏が中国のアートバブル状況に「驚いた」といったことに対して、「僕は全然驚きません。世界的な金余り現象の中で当然のことです」というような発言をする人であった。
そういう一見クールな発言をするかと思うと、「本が期待した10分の1も売れていない」とか、「翻訳者は芸術家のように助成を受けられない」という発言がポロリと出ることもあり、なんというか、ねばっこい話し方をする人であった。翻訳という労を多くして益少ない仕事をしているのでは大変だろうと思ったが、後できけば、本業は県立美術館のキュレーターであるという。税金から安定した給料をとっている人が助成に対してうらみがあるのは解せない部分がある。
そんなことは些細なことだが、本の主旨に沿って、「芸術の神話」という言い方を多用したのが気になった。つまり、芸術にまつわる幻想をこの本によって払拭する、という鼻息の荒さがある。
しかし、僕にとっては、神話とは否定すべき幻想とイコールではない。神話には神話の機能がある。
文化的な付加価値を神話と呼ぶならば、貨幣経済こそが最大の神話であろう。
金はリアルで芸術は神話だという論旨であれば、それはアートマネジメントに関わる人だけが議論すればいいことであって、芸術家や芸術そのものには関係ない。
こういう議論や風潮を進めていけば、これからの芸術家はセルフ・プロデュースをしなければならない、村上隆がいちばん偉い、という論理にもなっていくのであろう。
セルフ・プロデュースはできたほうがいいに決まっているが、それができなければ芸術家ではない、という話になれば、それは芸術の話ではなく、ビジネスの話になっていく。
芸術だってただのビジネスだ、と主張したいだけなら、別にこんなに厚い本を訳す必要はない。

山本氏の発言でいちばん違和感があったのは、「芸術の値打ちと、価格は必ず同期する。昔は、それに時間がかかったが、今は、すぐに高騰する。タイムラグがなくなったのだ」という意味の発言だ。
これは乱暴な言い方で、そういうものではないと思う。すぐれたものでも、埋もれたままのものもあり、くだらないものでも高く売れるものもある。
お金を芸術の客観性を測る秤にして一元化してはいけない。
僕は世が世なら、ゴッホの作品はあんなに高価にならなかったと思う。
新宿の駅頭で、ゴッホが3万円で自分の作品を売っているとする。顔に包帯を巻いて耳のところには血がにじんでいる不気味な老人である。絵をみれば、麦畑が妙にどよどよとして、カラスが飛んでいる。この男は無名で、もちろん将来有名になるという保証もない。
東京のゴッホ展には、50万人が詰めかけたというが、その中の何人が3万円で無名のゴッホの絵を買うか。僕はときどき想像して首をひねるのである。現にゴッホが生きている間、誰も彼の作品を買わなかったではないか。
この話を僕は最近、いろいろな人にするのだが、まだ即座に「自分なら絶対買う!」と自信をもって叫んだ人はいない。ちなみに僕は買いません。
だから僕は、「芸術の値打ちと、価格は必ず同期する」というのは、山本氏の中のとても楽観的な(物事の価値がシンプルで混乱がないという意味で)神話だろうと思う。

ニッセイ基礎研究所、芸術文化プロジェクト室長の吉本光宏氏の話は面白かった。具体的な数字のデータを元にして、クイズを交えたものだ。美術品の輸出入の金額の推移や、各国の芸術に関する政策や税制などを比べたものだ。日本人が印象派ばかりを買っているという数字も面白かった。
行政にも金をバラまくのではなく、いろいろ芸術をバックアップする手段があるものだ。たとえば、相続税の芸術品による物納などの話がでた。相続税が払えず美術作品を燃やした実話などを読んだことがあるので、とても実際的な話に思えた。
寄付に対する税制の話などもあった。
全体に日本の行政は芸術に対する意識が遅れているな、と思って聞き終えた。
ところが、山本氏が「芸術には金をやって補助するとダメになります」という意味のことをいった。本の中にある金を出せばより志望者が増えるので、貧乏な状況は変わらないか悪化するということのようだ(もとより録音もメモもしていないのでアバウトに意味をとっている)。
すると、吉本氏、急にニコニコしてうんうんとうなずいて、まったく金をだせばいいというものではない。そういう意味のデータではないことをお断りします、といった。
ことなかれ主義の匂いがした。
たしかに、この件に関する山本氏の発言おおむねは正しいだろう。補助金漬けで農業がダメになり、生活保護を受けるために働かない人々が生まれる。かつて「脱学校の社会」という本でイワン・イリーチという社会学者が実証的に書いた通りである。
ただ、データの中には、そのような金のバラまきとは違う基礎的部分を整備するという側面が強かったはずで、そういう部分はきちんと指摘して反駁してもらわなければ、創造的な議論にはならない。
面倒臭くなるとテータを編集した肝心なテーマまでさっさと取り下げてしまうその態度にはがっかりした。

慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ総合研究機構・教授の岩淵潤子氏は、バーゼルのアートフェアのことを中心に語った。要するに芸術で人を集めて、街全体に金を落とさせる。そのことを市民も行政も高い意識をもって、自然にやっている。そういう文化がある。
芸術そのものに人が金を使わなくても、宿泊や飲食その他で楽しめて、観光客がお金を落とす祭りに盛り上げる、それが上手だ、という話だ。
よいお話である。啓発的な部分もあったが、長い。もう少し体験談は端折って、全体のテーマとつなげる話をしてほしかった。テーマとつなげる部分はどうも未消化で取ってつけたようであった。
全体にプロジェクターを使って、何かを投影しながら話すのだが、岩淵氏の場合は、海外の写真である。なんか後半は間延びして海外旅行から帰ったおばさんにスライドを見せられて自慢されているような具合であった。岩淵氏は国際的に忙しく飛び回っているという紹介があり、自慢と言うより日常であろうが、僕らのようにいつも国内でのたくっている人々には不評であった。

全体にこの人たちが貧乏なアーティストを想像する場合、「芸大を出たのに、芸術を職業にできない人々」を思い浮かべているような気がする。それ以下は存在しない、という感じ(これはあくまで僕の印象である)。

この「知的」なシンポジウムの本質は意志の不在であった。新しい認識というのは、地図であり、羅針盤である。誰がそれをもって旅するのか、ということが欠けていると、それは「知的」おしゃべりになる。翻訳者の山本氏も含めて、芸術が神話化されているがゆえに食べている面があるだろうし、新たな神話の再生産にも荷担しているはずなのである。しかし、そういう根本テーマはすべてスルーされて誰の立場でもない話が進んでいく。

芸術を非神話化することによって、どうなる、あるいはどうしようというのか?
一部の特権的芸術家に金が流れるだけでなく、もっと広く薄く芸術家に流れるのか?
あるいは特権をはぎとり、当たりのない宝くじのように、あらゆる芸術家が貧乏になればいいのか?

パネラーの人の大部分は、お金に困っていなさそうである。要するに貧乏でない人が芸術家の貧乏とお金について話しあっているのだ。誰も芸術の現状について困ってもいないし、従来の秩序を壊すような方向性や結論を求めてもいない。
若く貧しい芸術家の友人たちの顔を思い浮かべると、全然関係ない話だなー、と思う。生きているレイアーが違うのである。
「金と芸術」について考えさせられる。

パネラーは、それぞれにすぐれた能力、識見、経験、知識を持っているが、それがぶつかりあうことはなく、それぞれが自分の立場を守りつつ、相手の領分を侵すこともなく、なんの結論も方向性もないまま話は終わり。それで3時間。長い。芸術を語ることは芸術的ではない。

最初のほうに、これは結論を出すための話し合いではなく、予備的なものである、というような言葉による但し書きがあった。
たしかに、このような話し合いなら、永遠に予備的であり、何も生み出さないまま続けることができるだろう。
なるほど、シンポジウムというものでは、これで「何かした」、ということになるのだな、とその部分にいちばん感心したりして。

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能を初めて見てぶっ飛んだ! 『薪能・野守』  村松恒平

Posted on 5月 24, 2007

昨日は、誘われて深大寺で薪能、野守を見てきました。これは境内の本堂の正面に舞台を特設して行われます。ほとんど宣伝していませんが、数百人の人が座って見物していました。無料です。
狂言は見たことがありますが、能を見るのは初めてです。予備知識もほとんどありません。

「野守」は、山伏が、野守という役目の老人に、鬼神を呼び出す不思議な鏡を見せてくれ、と頼み、やがて老人は鏡をとりに消え、代わりに鏡をもった鬼(同一人物?)が現れて地獄に帰っていく、という筋。
説明しても茫洋としていますが、詞章や大意を読んでも、見た僕自身が、どうにも半分くらいしかわからないのです。
そのぼんやりした感じがどうも能の本質なのです。

薪能は、夕刻、薪に火をつけて行われます。
「見ているうちにやがてあたりが暗くなり、幽玄の世界に誘われます」と主催者が挨拶で言っていましたが、本当にその通りでした。
黄昏というのは、誰そ彼と書いて、ぼやっとしか相手の姿が見えなくなる時間帯をいうそうですが、薪能、というのは、全くそういう時間に入っていくための装置なのです。

正直に言うと、ものすごく眠くなります。
鼓とかけ声のリズムは、厳密に決められているのでしょうが、西洋音楽に慣れた耳には、全く規則性を捉えられません。むしろ、規則性を外す、意味性を排す、という体系のように思われます。
言葉にしてからが、ほとんど意味を聞かせようとしていません。
習慣的に意味を捉えようとする耳は、つねに裏切られて虚空をつかんで還ってきます。

舞台の動きは、緩慢で最小限です。
シュワルツネッガーや、ブルース・ウィリスのようなアクションを期待することはできません。
実際に動作で表してしまえば、それは日常的な意味として了解されていくのですが、動かない、となると、動かない姿、小さな所作が、限りなく象徴として機能するようになるのです。

象徴については『枯山水 山河』でも書きましたが、さらに深くいうと、象徴による操作を行う枠組みが「儀式」になります。
儀式は神の力、あるいは目に見えないエネルギーの統御のためにあります。
そう考えると、動かないことでより大きな目に見えないエネルギーの流れを場に生み出しているのです。

この日、能には大きな拍手が起きていましたが、本来能は観客に見せるためではなく、神に捧げるものであるために、拍手はしないのだ、と後で聞きました。まさに儀式であるわけです。

そんなわけで(言い訳ではなく)、僕はうつらうつらと幽玄境に入っていったのです。こういう不思議な意識状態は、タルコフスキーという監督の映画でなったことがあります。要するに寝たとも言えるのですが(笑)。軽い催眠状態といったほうが穏当でしょうか。

そんな朦朧とした意識状態の中で、能は進み、はっと気づくと、鬼が舞台に現れて、金色の盆のような鏡を掲げました。音も最高潮に高まっています。

その瞬間の美しさ、ほんの一秒か二秒、いや時間はありません、夢幻の中の時間ですから測ることができない、でも瞬時の閃光的なものが、僕の中に入ってきました。
その美しさは写真には写らないのです。僕という受容器がある状態に作り出されて初めて入ってくる美しさ、そういうものがあるのです。
言葉にもならないし、感動したとか、幸せや快感とも違う。でも、僕の中に深く入って生き続ける美しさです。

ものすごく贅沢な一瞬です。

このことのために能というものが仕組まれて、伝承されているなら、ただならぬことです。どうただならぬのかは、理屈になるのでやめます。

やれ、おそろしや。

もちろん、これは初めて能を見た僕の理解なので、能を見続けている人は、もっと深いものを見ているかもしれません。

我が敬愛する山田風太郎は、遺作『柳生十兵衛死す』の中で、能をタイムマシンとして使っているのです。その設定はじつはピンと来なかったのですが、昨日の薪能を見て、意識の時空を超えさせる装置としての能というものをいやというほど体験したのです。

だからといって、能を今後積極的に見たいか、と言われたらそうでもなくて、一年に一回くらいで十分です。

見たくないけど、すごすぎるぞ、能。

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