モジリ兄の首は長すぎる  村松恒平

Posted on 5月 12, 2008

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新聞屋に券をもらったので、モジリアニ展を見てきた。
見る前から、あんまり好きではなかった。
見たあとも、やっぱり好かなかった。

モジリ兄とか、桃尻兄とか。
深く暗い地下鉄に乗って語呂合わせばかりを考えていた。

野口整体の野口晴哉氏は、かつて(もう35年くらい前だ)その機関誌『全生』に一点の絵を載せてその感想や批評を書いていたが、モジリアニの作品に対して「こういう絵は好かん」とばっさり切り捨てていたのが記憶に残っている。
彼は身体を見る人なので、モジリアニの身体の捉え方は嘘だ、というのだ。
野口氏は、どういう絵に対しても、そのように辛辣なわけではない。むしろ例外だ。たとえばルノワールに対しては「人物の形ではなく『気』を捉えている」というように絶賛していた。

しかし、野口氏のような達人ならずとも、誰が見てもモジリアニの首は長すぎる。
それは特長だと弁護する人もいるだろうが、どうにも不自然に長く僕はちっとも好きになれない。
そして、画家の内的な契機にも納得がいかない。
彫刻家を志していたとか、アフリカの首の長い人形にインスパイアされたとかいうが、そんなことはちっとも理由にならない。

何でこんなに首が長いのだ?
僕が屁理屈をつけるなら、モジリアニは頭脳と肉体とを乖離させたいのだろう。
結核病みで病弱であった彼の肉体を彼の頭脳は呪い否定していたのだろう。頭が身体から逃げだしたから、首が伸びたのだ。
首が伸びると同時に目つきも空虚で力を失っていったのだ。

そのような退廃を僕は好きになれない。

国立新美術館は、たぶん新聞屋から券をもらった御同輩のおばはんたちでにぎわっていた。
芸術が額縁に入っていた古き良き時代が新聞屋に支えられてそこにはまだ健在であった。

(写真はギャラリーショップで売られていたケニアのもの。こちらのほうが生命に溢れ、ずっと好きで思わず買った。『鳥』は砂金を測るときの錘の意匠から取られたものだという。黒檀の作品は『二人の賢人』という作品)

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