視力の精度はどこまで必要か?  むらさき

Posted on 9月 24, 2008

見える?見えない?

(0)プロローグ

「実は、乱視が悪化していました」…
乱視とは形の像が歪んだり多重に見えたりすることでございます。
聞くところによると、生物の目は完全ではないため万人が乱視の要素を持っている、なのだそうですが、乱視を問題にせねばならない方とそうでない方がいらっしゃいます。程度や角膜の歪み方の差ということになりますでしょうか。

わたしは乱視の為に主に仕事ではなく日常生活において支障を来しておりました。
特徴的なものとしては「光を放つものの形をとらえるのが困難」ということでございます。
1) 夜の車道の矢印青信号が認識不可。右折?直進?
2) 街灯がまぶしく視界がにじむ。
何より悲しかったのは、
3) 星や月がおよそまともに見えない。
ということでございました。

(1)問題提議
何度も夜空に目を凝らして眉をしかめているうちに、ふと思いました。
『まともに見える』とはどういうことなのでしょうか。

(2)具体例
まず視覚の状態について整理してみとうございます。
・より間違った捉え方 ⇒ 単純な分類:見える人・見えない人。
・より適切な捉え方 ⇒ 視覚障害における種類は多種多様。
ex. 先天性と後天的な障害/全盲・色彩や形、視界に障害など…
そうしてみますと、一言に「視覚に問題があると日常生活で(自他共に)認識している方」と申しましても、ちょっと想像を軽く越えた個々様々な物の受け取り方をしておりましょう。
そこから展開して、最も視力の障害として身近に聞こえる「近視」のおよそあらゆる段階も含めてしまいますと、 [視力の限界は十人十色] ということではないでしょうか。
つまり乱暴に括ってしまいますなら、
「視覚による認知なんて人それぞれ」
ということになるのではないでしょうかと、まず申し上げます。

(3)現状
わたしは美術造形、デザインに関わる者として名乗り、仕事を致しております。
「乱視」というもの=「ものの形が歪んで見える症状」についてはネガティブなイメージを認め、隠す必要性がございました。

その理由をまた整理致してみましょう。
「乱視」つまり上記の特性、ゆえに真円が真円に見えず、矩形の直線と比率が捉えられないと他人に思われる可能性がございます。
としますと、
ギャラリスト・デザイナーという専門職として、職業上の能力を疑われることを恐れるのは当然至極でございます。イメージだけでもよろしくない。
ですが、
多少の乱視を持っている人は実に多いというのもまた現実でございます。
職業上のことを申しますなら、専門職にも、またカスタマ、エンドユーザである一般の方々にも、乱視は存在するのです。多なり少なり。
では専門職の、視覚の認知の精度に関してどこまでが必要条件と規定されるのでございましょう?
わたしは、視覚の何をよすがに胸を張って芸術やデザインについて語れるのでございましょうか?

(4)視覚認知について考察:見るということ
一般論の方にシフト致します。
数学上での円や線と、三次元上の円や線とは、区別しなければならない、ということをまず挙げなければなりますまい。
例として、ポスター等の印刷物・コンピュータディスプレイの画像は、ぱっと思い浮かべた折、まず平面の上に展開される二次元の情報に見えるやもしれませんが、あらためて規定しますに人間の構造上は三次元として捉えております。
そこには素材があり、構成する物質があり、それを空間を介して視覚で捉えているからでございます。

ですから、デザインで取り扱うことに限定しますならば「直線」はどれほど厳密に細い直線でもコンピュータで作画したものでも「面」であり、更には顔料や繊維や液晶の画素が構成しておりますので実は「立体」であります。
理論上の所謂「正確な円」や「正確な矩形」は、ギャラリーでわたし共が扱う美術造形とは異なる概念上の存在。わたし共が扱っているのは「より、正確であるように見える立体」なのでございます。

理論上正確ではないと把握したところで「正確らしくあること」は追求せねばなりますまい。
ではどこまで「正確らしさ」=「精度」が必要かという問題がここで発生します。
またそれをどのような他者と共有することが可能かという問題が、(3)にも関連して浮かび上がって参ります。

(5)ある写真家の例
わたしの友人をご紹介したいと存じます。
彼は写真家です。とても繊細な心の持ち主で、わたしは友人でありつつその作品のファンであるとも申せます。

彼を悩ます現象がたまに襲ってくることをわたしは個人的に存じておりました。それは、視覚・聴覚・嗅覚・触覚…すべての感覚が脳内の処理許容量を越えて、怒濤のように流れ込んでくることがあるということ、でございました。…少なくとも彼の説明を聞く限りではそうでした。
そのことはしばらくして医療機関の検査の結果裏付けられたのでございます。

彼が話してくれたことが、非常に印象に残っております。
そのような症状が彼を襲ってきて、視覚の精度と情報量に耐えきれない時、彼はなるべく暗い部屋に閉じこもる、どうしても所用がある場合は、目を閉じて外を歩くと。視覚以外の情報も持て余すほどに入ってくるから、目を閉じても外を歩けるということなのでございます。
わたしには、彼の悩みを共感できるなどととても申せません。
彼が捉えている世界を知ることはできませんのです。

ただ一つ、存じています。
それは、彼のセンスとものづくり(写真撮影・表現)は視覚にほぼ依存して成り立っているということの一方で、彼が一人の人間として生きる上で視覚が障害になることがあるということでございます。

写真 ─ 視覚に依存した表現。
彼の中では写真という表現に落とすことによって精度と情報量を抑え、多くの他の人と感覚や感情を共有することが可能になるのではないかとわたしは推察致します。
感情を煮詰めて情報量の精度や密度を高めて制作をなさる作家の方とは、プロセスが逆であるという点、わたしの関心を強くひくのでございます。

(6)空間認知について考察:再認識のススメ
前述(4)で空間という言葉が出て参りました。
人間は空気に満たされた地球上に生きるという大前提がございます。
また、情報を交換する上で視覚の占める割合が大きいという小前提がございます。
・光/視覚情報
・振動/音
・温度
・湿度
・におい
…これら多くの情報を、人間は
1) 全身で受け止めている。
2) 自らも発している。
と考えられます。おそらく視覚以外に発している情報は、自らが自覚している以上の働きをしていることでしょう。
専門家はそれを自覚的に行わなければなりません。印刷物には形や色のみならず素材感や手触りがございます。それは同じ空間の中で、受け手がこれまで経験してきた蓄積が、見るだけでも知らずに手触りなどを認知している場合があり、また実際に触れるものはその感触が感情に働きかけ等を致します。

また、人々は、空間が視覚に作用しているということを知らず知らずの内に知っているはずなのでございます。もしかしたら忘れているかもしれません。
しかしたとえばいつもメールをやりとりしていた相手から電話や手書きのはがきを受け取ったり、会った時の声の調子や話す速度を耳にし表情を目にした折に、何か感ずるところあり、といった経験は多くの方がなさっているのではないでしょうか。ですからはがきの感触や季節感を大切にしたり、会ってお茶を飲む時間を大切にしたり、笑顔を作ったり笑顔になってしまったりするのではないでしょうか。
専門家が必要な自覚はたとえば、作品について電話でインタビューをしたりよく出来たカタログを観たりするのと実物を観ることの違いをよく心得ておくことであったりします。作品はその置かれる場と観る人間の目なくしては作品として成り立ちません。

そこで、視覚情報を成形・売買して生業にしている人間は、作家、デザイナー、ギャラリストなどたくさんおりますが、その商売のお相手は同様の人種であったり一般大衆であったりします。
(2)で申しました通り、いかな工夫して作っても受け取り方は人それぞれでありますことを了解しても、わたし共の仕事における視覚情報の割合はやはり人並み以上に大きい。
そして尚の事その精度を問われることは必然で、完璧が存在しないことを承知の上でぎりぎりまで尽力せねばなりませんので、わたしも悩んで当たり前なのでございます。
しかし、日々に二次元・いや三次元の情報の精度を詰めることに追われるが為に、「他者との共有は常にとても不完全である」ということ見落としがちなのではないかと、ここに疑問を提示致します。
そして提言致します。

「まず空間あり。そして光を知る」

(7)結論
再認識した上で割り切ってなすべきことをなすべし。
大した結論ではございませんが、腹を括れということでございます。
わたし個人に関しましては、治せるなら視力を治し、矯正視力も最善の策を取ります。
オールラウンドに同業の方々に関しますならば、できることとできないことの区別、人間の目には限界があるということを自覚してどなたとも接するとよろしゅうございましょう。
言い換えますと、マルに見えてもその実態がマルでないというわきまえが必要だということ。わたしとあなた(あらゆる人)が同じものを同じようには見ていないというわきまえの上で努力する、ということでございます。
重要なのは、『まともに見える』のではなく『まともに見る努力』を黙って行うことでございます。

(8)エピローグ
矯正視力を調整した後、迷いながらもわたしはカミングアウトを致しました。
「実は乱視がひどくなっていたのですが」
笑い顔でそんな話をするようになりました。

その少し前のことです。
眼科の廊下で、矯正用レンズを慣らす為に数分待たされている間、きょろきょろとあたりを見たわたしは心底驚嘆致しました。それは、今までぼやけていたピントが合ったなどということではなく
「世界はこれほどまでに奥行きがあったのだ」
という感動でありました。お手洗いまでの短い廊下の突き当たりをまじまじと見つめておりました。
わたしは視力を落としたことで形よりも空間を失っていたことを思い知ったのでございます。
・そのことを忘れ去っていたこと
・目が良いままであれば気づくこともなかったかもしれないこと
に恐れを抱いてこの文章を書くに至ります。
(おまけ)
今も、新しい眼鏡やコンタクトレンズの最適な矯正視力を持ってしても、満月と十六夜の違いがいま一歩、識別できる自信がございません。暦を知っているからこれは満月に違いないと踏むものの、やはり秋の暗い夜空にくっきりと明るい月の光はなにか怪しくゆらゆら致します。
わきまえを持ったつもりでもやはりマルがマルとして見えないことは、恐ろしい。
己が見ているものがいかに丸く見えても…。
お月様は、そのようなことで悩んでいるわたしを見下ろして悠然と笑っているように見えたのでございました。

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「わからない」と言えますか  むらさき

Posted on 7月 2, 2008

あちらを向い海舛蕕鮓�

某美術大学の某教授が、ある抽象造形作品を観て
「わからんな」
とはっきり仰ったことに些か驚愕致しました。
この方がそのような方だということは存じておりましたが、今更ながらに。

「わからんな」
と申しますのは
「何を表現したいのか理解できないし何かを汲み取る気にもならない」
という意思表示でありました。

この方を「某」と表現致しますが、別段なんでも構いますまい。
准教授であろうと、著名デザイナーであろうと。
美術の世界でとりわけ肩書きや立場にしばられる位置にあっての発言に変わりはありませんから。
しかもこの教授は、美術界を揺るがす名物としてお金であちこちに引っ張ってこられる方ではなく、ご専門の研究はきちんとこなす方でいらっしゃいます。
自由奔放変人ぶりが売りというわけではいらっしゃらないのです。その分、本当に思ったことしか口になさいません。

その造形作品は、明快なメッセージを理解されようという意図は見てとれぬ、むしろ造形の特性と心象表現に重きを置いており、そうした実績で受賞歴などのある作家のものでした。しかしながらあらためて、このような奇怪な色・手触り・形態のものが評価されるとは、「美術」とはなんぞやと考えます。
イメージの上で個々に齟齬があるのはもはや当然のような存在。
そうした作品です。

美術の世界に身を置く方に、お聞きしたいと存じます。
誰を前にしても、一見不可解な造形物に関して
「理解できない」
とはっきり言い切れますか。それとも、理解できるふりをしますか。何か糸口を探しますか。違う切り口を探して長い批評表現をなさいますか。

次に思いましたのは、特に美術館に頻繁に足を運ぶというわけでもないごく一般的な市民の方々が、そのようなとっかかりのない抽象造形作品について、
「わからない」
と言えるかどうかということでございました。

わたくしが接した中では、お客様の言葉には
「わたしなどにはわかりませんから…」
というような口調に妙な申し訳なさを感じ取りました。
またもっと進みますと、『わからない』という言葉すら口に出せない方もいらっしゃいました。
非具象をお嫌いな方は、お話をうかがっておりますときちんと持論を展開なさいます。そういった愛好家の方の強い口調の裏にも、『わからない』と口にする恐れのようなものを感じることがございます。

わからないこと、理解できないことは、悪いことなのでしょう。そしてとても格好悪いことなのでしょう。
誰かがそのように決めてしまったのに相違ありません。
おそるおそる、わからないという意思表明されたお客様に対して、果たしてわたくし共のような『美術サイド』の人間が
「そうですよねえ、これは全く理解不能ですね」
と言えますかどうか。試されているような気も致します。一方、画廊に足を運んだのに
「つまり、わからなかった」
とお話をしただけでお帰りいただくのは、お客様のおみやげとしてはあんまりだという思いはもちろんございます。
ですから『わからない発言』はあくまで前提に過ぎず、その先に本当の思いを発言する自由があるのだと存じます。

「何故、わからないか」─ この方向に話題を掘り下げてゆけば興味深い対話は可能です。しかしそんなに深く長い対話を、お客様が、通りすがりに立ち寄った画廊でお望みになるでしょうか。
一方、そのような可能性を知っているお客様なら既にどこかに扉はあるのです。
ですから要する時間の長さの問題ではございません。

美術に携わる人間として、またどのようなお客様にも接する専門サイドの人間として、自由とは何か、「わからない」とは何か、考えさせられたのでございました。

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「なに流」作法  むらさき

Posted on 6月 7, 2008

His way of life, is it beautiful or not?
二流、三流の芸術家という方々が、とても難しくてあらせられる。
ここでニとか三という言葉を使うのには、ただ単に芸術性のレベルを段階状に分けているわけではない。
私がここで述べたい方々とは、
1. 作品がよく売れ
2. 時には専門家として招聘されることもあり
3. どこでも先生と呼ばれ大概もてはやされ
4. しかし「一流ではない芸術家」
である。
1から3はある種の実力を指している。にも関わらず4が重しになっているので『自分はそもそも芸術家などと名乗るようなアレではありませんで』と自認されている方も是非下記の部分にご注目いただきたい。

「一流」の芸術家は自己の確立に自信がある。
そうでない芸術家は不安がある。自己を確立するための攻撃をしたり、陰口を叩いたりする。
「一流」の芸術家は、己の利害や芸術性に関わりのないことは目に留める必要がない。広い視野で世界を見ている。たいしたことのない小物は眼中にないし相手にしている暇もとらない。小さい活動をしている人でも評価することができる。
そうでない芸術家は活動が小さくても小物でも目障りな人間に過剰反応する。ヨソの美術関係者のすることに横から口を挟んでみたり、手間と時間をかけて関わりのないことにクレームをつけてみたり、怒鳴り声をあげてみたりする。

大きな声を出すなんぞ。そんな労力を何のために割くのだろう?考えあってのことか、実は衝動ではありはしないか。誰のため社会のためだと誤摩化し、根底には錆び付いたプライドがありはしないか。

プライドは重要なものだ。あって有害ということはない。
ただし自分をただ支えるだけでは脆い。多角的に見ること、どんな相手とも人間として対等であることにおいて行動が縛られず自由であってこそ、強くて輝きがある。
自分をこう見たいから、こうあらねばならないからという焦燥。それはたとえばの話、「先生」と呼ばせるために一言口出ししたり、青二才にわざわざ謝罪させるため根回ししたり。目障りであればどんなに目下に見ている相手でも放っておくということができない、であったり。
立ち位置を確保するがためのプライドがこりかたまっている、そのことはおそらくコンプレックスというものの両面である。
そしてプライドとコンプレックスの上にいろいろ積み上げ過ぎて、今更土壌を変えられないという事態にもなっている。

プライドもコンプレックスも自分を立ち上がらせるために雑念を呼ぶ。生き抜くために。無自覚であるか、自覚的であるか。無自覚にその上で行動している限り「一流」にはなれない。住む世界が違う。数々の分岐点で、自分がよって立つことのできる狭い世界への道を選んでしまう。

青二才の不肖わたくし、芸術にも「流」があると学んだ。
まず始めに述べた通り「一流」とそれ以外。そして、さながらお作法のように地域やグループ・派閥ごとに「流」がある。その「流」において「先生」は上の方に鎮座しておられるらしい。青二才が「流」に倣わないと「先生」はご機嫌を損ねてしまわれる。ただし対面の口ぶり程度ではご機嫌は測れないことも多い。自分自身を売り物として必死に生き抜いてきた営業マンとしては実に一流なのだから。
わたくしも芸術活動運営サイドの一人として、いくらかの「流」とお付き合いをさせていただいている。諸先生方の教えを頂戴し、ご親切には心から感謝を申し上げ、精進している。ただしわたくしに関する苦情はわたくし自身ではなく上司に来る。所謂、会社組織の中で部下の処分について責任者である上司に苦情がいくのとはまた違う意味であるようで、ややこしく。
その苦情には多なり少なり『私を立てろ』『目障りだ』という臭いがする。作品が引っ張りだこであるだとかの実績は実績として、臭い人間を眺める思いは青二才ながら冷ややかだ。

わたくしは、お作法を学ぶことに努力を惜しまない。わたくしもこの世界に生きる決意であるから。しかしどのような価値観に身を沿わせて日々行動するのか全くの無自覚でいては、どれだけ成果をあげても「一流」とはおよそ縁がないまま一生を終わるだろう。
その意味するところは、自分が取り扱っている作品や人や感情や社会の、本当の価値を理解できない人間に成るということだ。感動する心を喪うことだ。

これは、おおいに皮肉の記事である。と同時に、挫けたり立ち直ったり笑顔を作って見せたり口上を述べたりする内に、徐々に強いプライドが形成されつつある自分自身への厳しい戒めである。

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