坂本龍一+高谷史郎「LIFE-fluid,invisible,inaudible」 construction site

Posted on 10月 9, 2007

image_icon by 高橋キンタロー坂本龍一+高谷史郎「LIFE-fluid,invisible,inaudible」

「暗い空間には、1.2m四方、30cm高の水槽が3x3個グリッド上に吊られています。水槽内部では人工的な霧が発生し透過と不当化をつなぐかのように流動的なパターンがたえず産み出されていきます。水槽の上から放たれる映像は水溶きの織り成すパターンを通過することで絶えず融解され、抽象と具象の境界をたゆたい続けます。音や映像は流動的な霧やコンピュータのランダムネスにその展開を委ねることでリニアで確定的な時間や空間性から逃れ、ダイナミックに変動する現象として出現し始めます。訪れた人々は、空間内を自由8に動き、水槽の下にたたずむことで、可視と不可視、聞き取れるものと聞き取れないものの間に潜む生きた変容の場に立ち会うことになるでしょう。」
(坂本龍一+高谷史郎「LIFE-fluid,invisible,inaudible」チラシより)

9/15よりICCで行われている坂本龍一と高谷史郎の展覧会「LIFE-fluid,invisible,inaudible」に行ってきた。
展覧会の内容は、チラシに書かれていた上記引用の通り。
映像とそれを投影するための水槽や霧を発生させる装置などを担当した高谷史郎氏と、3×3台の水槽にそれぞれ二台づつ取り付けられた18台のスピーカーから出力される音楽(音?)を担当した坂本龍一氏とのコラボレーションによるインスタレーション作品である。

「LIFE]というタイトルが示すように、この展覧会は、坂本龍一が20世紀を総括するという構想の下に1999年に行ったオペラ「LIFE」の続編に位置づけられている。
オペラ「LIFE」では、オペラという表現形式の特性上、一直線に並べられた時間軸に沿って映像と音楽が上演された。一方、今回のインスタレーション作品「LIFE」では、オペラ「LIFE」で使った映像と音源がコンピュータのハードディスク上に記録され、1.2m角のアクリルボックスに人工的に作り出した霧と水の上に描かれる波紋に向かってランダムに出力されている。そのことによって、非同期な音と映像そして霧や波紋が重なり合い、鑑賞者が自由に遊歩することで体験される非線形な空間が作り出されている。

「LIFE」のテーマが「共生」にあるとすれば、一つの時間を強制するオペラよりも、鑑賞者が自由に非線形の時間を体験しうる今回のインスタレーションのほうが、より洗練された表現になっている、ということである。

ただ、この作品から未来への可能性を感じることはできたのは、そんな壮大なストーリーとは別のささやか部分だ。

そもそも非同期の音やビデオ映像を用いて非線形な空間を作り出すというアイデアは、ジョン・ケージの「Rain Forest」(1968)やナム・ジュン・パイクのビデオインスタレーションにおいて、すでに示されているものである。そのため、今回の作品には、そのアイデアを、ラップトップコンピューターや液晶プロジェクターといった今我々が手軽に利用できる最新の技術を用いて再構成してみせた以上の新しさはない。
もちろん、ポストモダンの音楽家として、クラシックから民族音楽まで様々な音楽形式を巧みに引用して作品をつくってきた坂本龍一にとって、ケージやパイクのコンセプトの引用は、まさに彼の意図するところであり、このインスタレーションがそれらの焼き直しだという批判は的を得たものにはなりえない。
とはいえ、現代美術の巨匠たちが提示したこの手法が、”メディアアート”の常套手段としてすでに大量のコピーが作り出されている状況において、さらに新しいコピーを一つ加えることに積極的な意味を見出すことはできない。

むしろ、可能性を感じられるのは、現代美術から引用されたありふれたシステムではなく、このインスタレーションが持っていた新しいイメージにある。
今世紀、環境問題が深刻になることは間違いないが、それに対応した新しい表現は、未だに貧しいものがある。
20世紀の建築を例にとれば、ミース・ファン・デル・ローエの「バルセロナパヴィリオン」に代表されるように、産業革命や科学技術という時代のパラダイムに対する適確な美的表現が与えられた。
一方、現在行われている環境問題へのアプローチは、ハイテクで環境問題を解決しようとするモダニズム建築にソーラーパネルを載せるサスティナブルデザインか、「自然と共生していた」とされる過去の生活を、自然素材などを利用することでシミュレーションするノスタルジックな山小屋か、という二者択一になっている。

そんな状況に、このインスタレーションは、一石を投じているように思える。
今回の作品が「LIFE」というテーマと伴に示しているのは、液晶プロジェクターやパソコンなどの最新のデジタル技術をつかっただけのメディアアートでもなく、森や湖、田園風景へのノスタルジーでもない。
「自然」を、ノスタルジックに捉えるのではなく、霧や水の波紋などのプリミティブな自然の中から抽象的なパターンを取り出すことによって、液晶プロジェクターやデジタルノイズを多用した音楽などの最新のデジタル技術とを高度に融合させている。

最近の坂本龍一は、Carstein NicolaiやFenneszといった音楽家とのコラボレーションで、プログラミングされたデジタルノイズにアコースティック・ピアノを重ねた作品を作っているが、デジタル技術(液晶プロジェクター、デジタルノイズ)+抽象性の高い自然(霧や波紋、アコースティック・ピアノ)融合という点で、このインスタレーション「LIFE」との共通点を見出すこともできるように思う。

つまり、ハイテクで省エネシステムを作り出すのでも、ノスタルジックに過去の田舎暮らしに回帰するのでもなく、21世紀のパラダイムとしての環境問題に対応した表現として、デジタル技術を生かしながらプリミティブな自然と共生するという別の方向を切り拓いている。
このインスタレーション「LIFE」に21世紀の展望を見出させるとすれば、この作品のもっていたそんなイメージにある。

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レビュー「ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展帰国展『藤森建築と路上観察』」

Posted on 7月 17, 2007

image_icon by 高橋キンタロー
「ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展帰国展『藤森建築と路上観察』」
藤森照信研究室

藤森照信は、常々「他人の建築を語るプロではあるが、自分の建築については考えないようにしている。」という。
しかし、展覧会とは、自分の建築を語る場である。とすれば、この展覧会は、藤森が自分の建築について語らなくてはならない数少ない機会だといってもいい。
あまり自分の建築について語ろうとしない藤森がどのように自分の展覧会を構成しているのか。

会場のオペラシティアートギャラリーは、一方通行の展示空間で、展示を観ながら進んでいくと、もとのエントランスに戻ってくるという動線になっている。
藤森は、この展示空間を4つの領域に分割し、最初の3つに藤森建築の技術、表現、記憶に対応した展示を行い、最後の領域に路上観察のこれまでの成果をまとめている。
最後の路上観察のこれまでの成果がまとめられた領域は、廊下のような狭い空間にあって、補足的な展示であるので、メインの展示ははじめの3つの領域にある。
そして、「技術」、「表現」、「記憶」の3つに区分された領域は、いわば藤森いうところの「建築の創造は、頭と目と手の三位一体の結果。」(『藤森照信の原・現代住宅再発見』P101)という考えに沿っている作られたものであると理解できる。

「技術の領域」には、手で塗られた凹凸とクラックがたくさん入った漆喰壁や鉈で割ってつくる板材、削岩機で削られた丸太、あるいは南伸坊氏のステンシルのドローイングなど、これまで藤森が建築に利用してきた”自然素材”の仕上げサンプルと、それをつくりだすための技術が展示されている。
ちなみに、ここで言う”自然素材”とは、単純に木材や土壁などの”エコロジカルな材料”を指すのではない。むしろ、経済効率の追求によって、現状の建築生産システムから排除されてきてしまった技術、既存の建築現場では決して使われることのない、他業界の技術、素人の技術である。

次に、通路のための穴が空けられた杉板のパーティションを潜ると、「表現の領域」がある。
この領域には、これまで藤森が手掛けてきた建築物の同じサイズの写真が淡々と壁にかけられ、部屋の中央にはおおよそ建物の形状が理解できる程の丸太から切り出した荒っぽい模型が展示されている。
建築写真に関しては、雑誌などで見てきたこれまでの藤森建築なので、目新しい展示物ではない。しかし、ここで特に注意を引くのが、一般的に建築を説明するために用いられる設計図などのメディアが、ここで一切展示されていないところである。
当然のことながら、一般の素人からすれば、図面とは建築物を作るためのツールでしかなく、それ自体に特別な価値があるわけではない。しかし、建築設計を手掛けるプロにとっては、それこそが自身の職業アイデンティティのよりどころになることがある。
例えば、最近の妹島和世の建築の平面図が、美しいグラフィックパターンのになっているのはその代表的な例である。平面図が描く美しいグラフィックパターンは、実際に立ち上がった建築物になったとき(つまり素人は)、一切感知することが出来ない。
素人の視点から考えれば、立ち上がった建築で感知できないのであれば、無意味なこだわりであるかに思えるかもしれない。しかし、実はあのグラフィカルな平面図は、建築雑誌に掲載されて、それが流通する建築デザイン業界内で、”アート”として認定させるための暗号になっているのである。
その意味で、藤森が図面を展示しないのは、図面を俯瞰して眺めるという建築家の視線を批判し、あくまで素人が感じることが出来る純粋な視覚をよりどころに建築を作ろうという態度の表明だといえる。

さらに、靴を脱ぎ、茶室のにじり口のような穴を潜ると3番目の「記憶の領域」が始まる。
この領域は、藤森の頭の中に入ったかのようである。
温暖化のために水没した未来の東京をモティーフにした「東京2107」の巨大模型や、卒業制作の作品「幻視によってイマージュのリアリテをうるルドォー氏の方法」、あるいは巨大な石を利用して作られたヨーロッパの民家などの藤森建築に大きな影響を与えた既存の建物、あるいは、本物の芝生が生えた高さ4mはあるかと思われる巨大な土塔など、一見無関係ではあるが、すべてこれまで藤森建築に大きな影響を与えてきた思われる”記憶”が展示されている。
それぞれの展示物は、大きいものも小さいものもあり、また明快な秩序もなくぽつぽつと並んでいるので、人間の記憶を空間化したかの印象を受ける。

そして、さらにその部屋の出口付近には、藁を編んで作られたドームが設置されている。そのドームには、にじり口よりもさらに小さな穴が開いており、この穴から床を這い蹲りながらやっとの思いで中に入ると、その中では路上観察学会で採取された写真が学会のメンバーたちが簡単なコメントとともに次々と映し出されている。
この領域が、藤森の頭の中の模造だとすれば、ここで語られるコメントは、展覧会に訪れた観客に対する説明ではなく、むしろ藤森氏の頭の中で繰り返し蘇ってくる路上観察で採取した写真とメンバーたちの声であり、「頭」の領域において特にドームで囲った領域も展示されているビデオとは、藤森建築にとって、もっともコアな記憶だと考えるべきだろう。

しかし、では藤森建築と路上観察とは、どう関係するのか?
確かに、一見すると、藤森建築と路上観察とは直接関係がなさそうにみえるが、これもすこし考えてみると察しがつく。
路上観察とは、有名な「純粋階段」に代表されるように、人が無意識のうちに作り上げてしまった奇妙なものを採取しようとするものだった。
そして、藤森建築は、まさにこの展覧会で示されているように「記憶の領域」に展示されているような無意識のうちに眠っている数々の記憶を、手(技術)と目(表現)を用いながら固定化することで作り上げられるのである。
つまり、「純粋階段」も「藤森建築」も無意識の創作物という点で共通しており、藤森がプロジェクトの最初に描くスケッチは、無意識に眠っている記憶を掘り起こすための、シュルレアリストが行った自動筆記のようなものだといえるかもしれない。
そして、藤森建築にもっとも大きな影響を与えた記憶とは、路上観察で採取した素人が無意識のうちに作り出してしまった奇妙なものたちと主張されている。

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