本間泉展 天才、本間泉の「幻視力エンジン」、銀座のギャラリーで初開花♪

Posted on 9月 2, 2013

本間泉が初個展を開く。
これは事件にしないといけない。
事件にするかどうかは最終的に世間が決めることだが、ある透明な領域において、これはすでに事件だ。

僕が本間泉と初めて出会ったのは、ある展示&合評会の場だった。
作品をめぐって作者が短い説明をし、そのあと、会場からの質疑や感想が飛び交うスタイルで進んでいた。
ところが、本間の夢幻的な空間を描いた絵画に対しては、感想も質問もない沈黙があった。
僕は「この幻想的な絵画には、夢の遠近法のようなものがあって、その奥行きの中に本当に入っていけそうな魅力がある」と言った。
それで活発な議論が始まった。

この発言で、僕と本間は出会った。
このときの感覚は今も少しも変わらない。
本間の奔放なイマジネーションには、内的な生命感覚がある。
内に秘めた内的な生命から、次々に色や形が展開していく。
その名のように泉のように無限に生まれていく。
仏を作ってから、なんとかそこに魂が宿らないかと待ちぼうけるような現代美術、抽象絵画とはまるで違う。

幻視力絵画なのである。
原子力は終わり、幻視力の時代が始まる。
「視えないものは去れ」。
芸術は今そのように宣言しなければならない。

童話の「みどりのゆび」のように、本間は触れるものすべてを生命化してしまう。
最近「デジカメで写真を撮るのが面白い」と言っていたが、その写真を見せてもらうと、最初から本間泉の世界であった。
カメラという媒体の特性を研究するでもなく、技術を積み重ねるでもなく、いきなり触れた途端に世界の磁場が変わって作品に変質してしまう。

今回、残念ながら写真の出展はない。
絵画だけでも驚くほど多産なのだ。
最近の作品を削ぎ落として、送った点数が約40点(本間は新潟村上在住)。
それだけでも、展示しきれなかった。
多産であって、多様。
作風はつねに驚くほど変幻するが、本質は安定している。

隠れた幻視者は日本中、世界中にいるはずだ。
しかし、本間ほど大胆で躊躇いも恐怖もなくその中に歩みいる者はいない。
手で触れたものをいとも簡単に変容させてしまう者はいない。
天才の所以である。

本間泉は、そのような1人の旗手なのである。

天才が世に出ないことは多々あることだ。
今の日本にどれだけ視みえないものを視る人々がいるか。

「境界。しんとした広がりに、さざめくもの。命の音。」

これは本間自身が展示につけた美しい言葉だ。

小さく透明な波紋はもう広がっている。
幻視力エンジンを備えた天才のデビューにぜひ立ち会ってほしい。

(文責・村松恒平)

2013.9.2〜9.7
Gallery K 〒104-0031東京都中央区京橋3-9-7京橋ポイントビル4F Tel/Fax.03-3563-4578 galleryk@nifty.com http://homepage3.nifty.com/galleryk

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本間泉、生成するイメージの王国の王女

Posted on 3月 5, 2011

絵というのは、キャンバスに絵の具をなすりつけたもの、という言い方がある。物理的にいえば、その通りだ。

それがあるとき、抗いがたい磁力を持って、僕たちを惹き付ける。あるいは所有したいと激しい欲望を起こさせる。

そこにはすでに魔術や錬金術という名に値するプロセスがある、というのが僕の考えだ。

そこに何があるか、物理的にも科学的にも説明しようがないのであるから。ある説明を加え得たとしても、それは言葉に過ぎない。その説明を聞くことで、人は芸術の持つ磁力との直接のふれあいを断念するのだ。

美術館で、解説を読んだり聞いたりすることに一生懸命になれば、作品との交流にはエネルギーが回らなくなる。

解説は理解の糸口にはなる。ある作品の理解が扉を開ける行為だとすれば、解説が小さな扉をあけてくれることがある。しかし、それは限られたいくつかの部屋の入り口でしかない。

多面的な知識を得れば、いろいろな入り口が作品に入れる。そういう観点に立てば、学者や物知りがいちばん絵を理解していることになる。

しかし、絵を見て、感動するということになると、物知りも何も知らない人も対等であろうと僕は思う。

ものすごく知識があっても、心を動かさない人もいれば、何も知らないで絵を見て泣き出してしまう人もいるだろう。それは人の中で感受する場所が三段階あるのだ。頭脳、心、魂。頭脳で感受してしまえば、心は頭脳のフィルターを通ったものしか受け取らない。

あー、前置きがいくらでも長くなってしまう。

つまり、ここに掲げる写真の3枚の絵の前に虚心で立ってほしい、ということ。
言葉に翻訳しようもない何かと確実に交流できる絵だということ。

大きな美術館の印象派や有名画家の展覧会はおおぜいの人が並ぶけれどもね。その何千分の1の人たちでいいから、自分の感覚で動く人たちがいてほしい。
そうでないと日本の若い作家が勇気づけられない。

僕はこの絵を初めて見たとき、不思議な奥行きに惹かれたんだ。どこまでも心が入っていけるスペースがあるような。どこまで入っていっても次つぎにイメージが生成されてくる現場いるような感覚。

リアリティというような言葉ではなくて、この場所が実在しているのに届かないようなもどかしさを感じるのだ。

作者の本間泉さんは、じつは多層視覚を持っている。現実のものごとが見える以外に、つねに別の色彩を見ている。
色が見えているということは、当然ある形状が見えているということで、それは人や物のオーラのようなものかもしれない。

だけれども、それでオーラのようにあれこれ判断したり、神様が見えたりはしないようだ。ただ色が静かにたゆったっている世界に彼女は生きている。

その世界を覗かせてもらうわけにはいかないが、彼女の作品を僕らは見ることができる。

**
これは「本間泉×谷本光隆 二人展」に展示中の作品。
他にコラージュもある。

谷本光隆さんの作品も水準高い。
僕は以前に二人とも作品買ったものね。
会期が長いのでお近くに行かれる方はぜひ!

スピリチュアル・ワールド~存在の表現展 vol.2
2011年2月26日(土)~ 3月27日(日) 

A/A gallery(アーツ千代田3331内)

http://www.ableart.org/

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アウトサイダー・アートの勧め

Posted on 1月 19, 2011

今、川口市の4つのギャラリーで「アートが生まれる場所」という展示をしています。1月23日の日曜日までです。
全国の障害者のアート工房の中でも筋金入り?の工房からのすぐれた作家の作品が一堂に会しています(川口市長がたいへんにアートの理解があるようです)。
すごい作品がたくさんありますが、すべて(たいがい?)無料で見られます。

「アートが生まれる場所」
http://www.kumalog.jp/recommend/2011_01_13_07.cfm

僕はこの4か所のうちの川口駅から徒歩8分のアトリアというところで展示の手伝いをしました。
展示の監督は中津川 浩章さんという現代美術家で、東浦和の『工房 集』というところで、ずっと障害者に美術の指導をしています。
僕もたいへん懇意にさせていただいている、というか、飲み友だちというか、機会あるごとに美術について語り合ったり、教えてもらったりしている方です。

アトリアの中でも、立体の展示は、重たい陶器などの現物をああでもないこうでもないと動かしながら決めたものです。もしアトリアに行く方がいたら、これに村松が関わっているのか、と思ってみてください♪

機会がある方はぜひこれを見ていただきたいのです。
そうしないと、この後に書くアウトサイダー・アートの総論は、実感としてわからないだろうと思います。

**

さて、アウトサイダー・アートです。
最近は、フランス語でアール・ブリュット(生の芸術)と呼んだりします。起源やニュアンスは違うのでしょうが、日本での実態は同じなので、僕はどちらでもいいなと思っています。
障害者が関わっているので、差別的ではないか、と配慮して腰が引け出すとどこまでも名前を変えていきたくなってしまうでしょう。そういう配慮ってキリがないのです。
ジャンパーがいつのまにかブルゾンと呼ばれるようになっていたみたいな変化はあまり僕は敏感について行きたくないのです。
ネットで調べた限りでは、どちらの言葉も、障害者のアートという意味の他に、専門的な美術教育を受けていない者のアート、というより広汎な意味があります。
そういう意味では、僕が絵を描いても、陶器を作ってもアウトサイダー・アーティストなので、まあ、ライバルのようなものです。
ピカソは親友(マブダチ)、アウトサイダーはライバル、というのが僕の立場です。

さて、名称についてはそれくらいにして、中津川さんと親しくなって工房集に行ったり、集のアーティストたちの展示を見て、最初に感じたことは、「彼らも作家なんだな」ということでした。
それまでは、「障害がある人は特殊な感受性を持っているようだから、障害のない人と比べたらズルいのかな」くらいに思っていたのです。

けれども、彼らの作品の現物を見ているうちに、そういう分け隔てする感覚が薄れてきたのです。

優れた作品は優れた作品でしかありません。彼らの中でも才能のあるなしもあるし、努力の量もあります。
描き続けていくうちに、より本質に近づき、洗練されていく面もあります。

彼らが特殊な感受性を持っていると思っていたと書きましたが、じつは感受性自体は同じなのです。

何が違うかというと、(以下の文は僕の少ない経験から観察し総合するところです。若干の例外があっても勘弁してください)こだわりですね。
関心のレンジが狭いのです。おなじ種類の絵を何枚もずっと描き続けます。
そして、それに倦むということがありません。
僕もA4ほどの板に虫の絵を細かく何百もぎっしりと描いたものを買いましたが、最初の虫も最後の虫も、同じテンション、同じモチベーションで描いているのです。
常人(こういう語彙も避けたくないのです)であれば、絶対に飽きてしまいます。それはどういうことかというと、虫を描くというのが意味になってしまうのです。
途中で「まだまだたくさん描かなければ……」と思うと、僕たちであれば、自動的に省略モードに入って、ペンの速度が速くなったり、線が乱暴になったりしてしまいます。
また作品として全体を眺め渡して、構成を考えたり、違うやり方を考えたりもします。
芸術というのは、言葉的な意味を超えるところに存在するのですが、そのような効率を考えたモードになったときに、意味が入り込んでしまいます。
なぜなら、効率というのは意味だからです。

構成ということをいいましたが、彼らには作品意識というものも当面ありません。

できあがりをああしようこうしようと考えていません。ただ描き始めてあるところで描き終わります。

ところが自然にその中の空間が整っていき、作品としてすごくいい感じになっていくのです。

こういうのが絵なんだ、美術なんだ、作品なんだ、という概念があってそれに似せるというところがないので意味にとらわれることがないのです。

美大の学生さんの作品にはよく、「コレってソレっぽくない?」と聞かれているような気にさせるものがありますが、そういのは、皆無なわけです。

そういう意味のくびきから解放された世界に、個性や才能の花が開くわけです。

彼らはおおむね一つの傾向の作品を作り続けますから、そのテクニックは洗練され、高度に習熟していきます。
テクニックといっても、その作品を作るためのテクニックであって、汎用性はありません。自分でやり続けることによって次第に洗練されるのです。

日本の美術の専門教育は、デッサンというすべて一律の西洋絵画の技術を身につけてから、それぞれの個性を開花させようとするのですが、僕は純粋な芸術という観点からいうと、それはおかしいだろう、と思っています。
しかし、そのことは他の原稿に書いたと思うので、ここには書きません。

まあ、論より証拠、この機会にぜひ見てください。
僕が何を言っているか、一目瞭然にわかるはずです。

美しいものにたくさん出会えます。

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語りかける風景**風景画の法則を発見

Posted on 6月 24, 2010

『語りかける風景 コロー、モネ、シスレーからピカソまで ストラスブール美術館展』を見てきた。

風景画……過去の遺物かと思っていったが、非常にわかりやすい発見があって楽しめた。

風景画は、一つの絵の中に大まかに近景、中景、遠景がある。
これの描き分けが画家の一つの見せ所となる。
それから空と雲。
光。
それから魅力的なモチーフ(船や古城や樹木、人物などの対象)と画面構成。

古典的な風景画には、上記のものが揃っている。
何かが欠けているのは、画家が何らかの美術的な野心、イデオロギー、風潮に染まっている場合である。
風景を描くときには、上記についてのアイデアをよく練って、それからすっかり忘れて描くのがいいだろう。

もう一つ驚いたことは、僕はあまり展覧会で座らないのだが、今回、ひょいと座ってみると、先ほどの近景、中景、遠景の絵の奥行きがよりよく理解できた。壁に飾れば、部屋が広く、また別の世界に広がっているように感じられるだろう。
ちょうど窓からよい景色を眺めているようだ。
だから、風景画の空間を広く感じさせる作用は、大きい絵ほど大きい、という単純な部分がある。
絵画のこのような効用があれば、狭い日本家屋にも絵画を飾る理由になる。

肖像画などでは、たぶん逆に人物がこちらに訴えてくる分だけ空間は狭く感じるのではなかろうか。
このような風景画の作用が日本人の描く風景画にもあるか、と考えたがよくわからない。少ない経験ではあまり感じたことがない。
唯一思いだすのは、子どもの頃に行った銭湯の湯船の上に描かれていた絵である。
富士山があり、湖に帆掛け船が浮かんでいる。その手前に松林があるというような絵であったと思う。
子ども心には、それでしばしの時間、知らない世界に飛ぶには十分であった。


日本人は風呂好きであり、そこでのんびり和もうとする人が多い。
そして、日本家屋には、絵を飾るのに十分な壁面が少ない。

お風呂に飾る富士山の絵を描くのはいいと思う。
湿気や熱に負けない素材は何だろう。
新しい日本の風景画が始まる。

**
『語りかける風景』 Bunkamura ミュージアム 7月11日まで

http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/shosai_10_strasbourg.html

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「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」レビュー  村松恒平

Posted on 2月 12, 2010

朝青龍は、我々には永遠に読み解けない詩であった。
それは、「力」という名の詩である。

『チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展』を見に行ったのは、モンゴルの大横綱朝青龍の引退表明の3日前だった。場所は奇しくも両国・江戸東京博物館である。

何か懐かしいような異国、モンゴルについて、僕は何を知っているだろうか?

巻上公一さんに少しだけ習ったホーミーや、三枝彩子さんの歌で聴いたオルティンドー。

モンゴルを訪れた友人が、「向こうの犬は大きくて獰猛で狼のようだった。いや、狼なんか噛み殺しそうだった」と語ったこと。

そして、世界を支配下におさめるかに見えたチンギス・ハーン。
モンゴル帝国はチンギス・ハーン一代で、世界人口の半分をその支配下に治めたという。

獰猛で果敢で速度と力に満ちて、情報戦にすぐれ、ひれ伏し帰順するものは許すが、少しでも逆らうものは何の躊躇もなく皆殺しにする超軍事国家。
モンゴルは13世紀に猛威をふるった。

それを残虐と指摘することは、虎や獅子に向かって、お前は残酷だというのに似ている。

しかし、虎や獅子も空腹でなければ獲物を襲わないというが、モンゴル帝国はあくまで飢えていた。とどまるところを知らない業火のように激しく領土を拡大していった。
彼らは、その力を持って世界の果てを見極めたいと願ったのか。

しかし、その領土は彼らの治世の観念と能力を超えて急拡大したためにあっという間に四分五裂して、消滅した(いや、彼らならずとも、これだけの急拡大は支えられないであろうけれども)

いや、僕はモンゴルを知らない。
ここに書いているのは、正確な史実ではなくて、僕の中のモンゴル帝国といっておいたほうがよかろう。
そのモンゴル帝国にとって、至宝とは何だろう? というのが今回の興味だ。

パオに住んで遊牧する民。仮借なく騎馬で侵略し征服する民。
たとえば、異国の宮廷に踏み込んで、略奪するときにも、彼らを内から突き動かす力と速度からすれば、そこは見すぼらしい小屋と同様の通過点に過ぎなかったのではないか?

*

思った通り、展示には、たとえば、フランスの王女様がしているようなきらびやかで精妙な宝石を使った細工物などはない。
美しい女性の装身具があるにしても、もっと、野趣に満ちて骨太なのである。
そのように考えると、西洋の美術は静かな室内でじっと鑑賞するように作られているとわかる。

それよりも、目を引くのは男性的なもの、実際的なもの、軍事関係の文物である。
鏑矢の鏃などを見ると、その音が聞いてみたいと思う。
たぶん、僕ら日本人が鏑矢と聞いて想像するような、のどかで情緒的な音ではなく、モンゴルのどこまでも広い地平線に鳴り響くほど大きな音が鳴るのではないだろうか。
銅の鏃も音もなくすばやく飛んで、殺傷力が高そうだ。
鏃を通じて、よく訓練された屈強な兵士がいっせいに矢を放つ光景が浮かんでくる。

パオをそのままに乗せて、たくさんの牛に引かせる威風堂々の戦車の模型とか、投石機とか、何かふと血腥い乾いた風が吹くような物たちがいろいろ想像を広げさせる。

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極めつけは、写真の◆龍が彫ってある王座(一級文物) 清代 内モンゴル博物院蔵だ。写真は正面からだからわかりにくいけれども、大きな鹿の角を逆さに使った肘掛けは、鋭い先端が正面に向けて突き出していて、じつにかっこいい。
ギーガーの元祖のようなパワーも感じるし、マッドマックスや暴走族の美意識を百倍くらい高貴にしたらこうなるかもしれない。
荒々しいけれども、一分の隙もない。
これはすごい。

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それから◆大威徳金剛の面 清代 内モンゴル博物院蔵
個人的にこれも気に入った。

色合いといい、三つ目であることといい、わが守護神的作品、悪夢バスターとあきらかに血縁があるように思われる。

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大威徳金剛の面には、5つの髑髏がついている。髑髏までは及ばなかった。
この髑髏は魔除けであるとともに、敗者の屍をさらして威を誇るものだろう。

そういえば、草原では戦争に負けた相手の生首を子どもたちがクリケットのボールにして遊ぶ、という物語の描写をどこかで読んだ。

わが内なるモンゴルでは、生も死もどこまでも乾いている。
湿った心情の居場所はない。
この展覧会を見ると、日本にはない猛々しい詩情が心をよぎっていくのである。

「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」
http://www.mongolten.com/
2010年2月2日から4月11日まで

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あずかりキノコ 村松恒平

Posted on 8月 7, 2009

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ごぶさたです。

アーティストの山下若葉さんの作品、先日屋上に預かりました。
キノコ。

何でできているでしょう?

髪の毛です。

すごいでしょう。
インパクトはワールドクラス。

部屋が狭くて置いておけない捨ててしまう、というから、それはあまりにもったいない。
誰か買い手がつくまで預かりましょう、といいました。

ほしい方いますか?
将来何千万になるかもしれませんが、今は……交渉しだいです。

カフェバーなどのインテリアにも最適……ではないでしょうか?

関心がある方はご連絡ください。

最近投稿ないのでさみしいです。
僕は最近、こんなことしています。

『心が大事』

http://kokorogadaiji.jugem.jp/

またね。

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「工房集と仲間たち展」はパンドラの箱  村松恒平

Posted on 2月 10, 2009

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工房集は、2002年から活動している障害者たちのアートスタジオ。
そこのアーティストたちの展示。

今の時代、こんなことを正直に言ったらいけないのかもしれないが、障害者というと「カワイソウ」な人たち、という意識はやっぱり僕の中のどこかにあるんだ。

でも、彼らの作品をしばらく観ていると、そのうちにある面で本当に「カワイソウ」なのは僕たちのほうではないか、とすら思えてくるような逆転が起きる。
無意識との交流の量において、それに費やす時間において、贅沢なのは彼らで、「カワイソウ」なのは僕らだ。

でも、ここで僕たち、というと、健常者、健常者でアーティストを目指していたりする人を漠然と指してしまうわけで、そこにくっきりと線を引いたと言われるだろう。
では、そんな線があるのか、と言われれば、あるといえばあるし、ないといえばない。

飛行機から赤道や日付変更線を見下ろしても、そこには何の線もありはしない。だけど、その言葉や概念はあるし、そのように概念化している有用性だって当然あるわけなのだ。
だけれども、赤道で海や大地が分かれていたりしないように僕ら(彼ら)はつながっているのだ。

こんな但し書きはおまじないのようなものだ。
こんなことで言葉でこんがらかっているよりは、現物を見たほうが思わぬハッピーやラッキーと出会うだろう。

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出会った僕の印象は、ダイヤモンドの原石がごろんごろん。
その無造作な(といっても、背後にもちろんいろいろな努力や個別の物語があるのだろうが)ごろごろ感がすごかった。
これは開けた途端に宝石も災厄も、いろいろなものが飛び出してくるパンドラの箱なのだ。

現代美術をやっている多くの人にとっては、これはあまり大きく開けはなってほしくない災厄の箱かもしれない。だって、生命力が溢れているんだもの。
自分で自分の首を絞めて窒息しそうになって遊んでいる連中は、ますます息苦しくなってしまうだろうさ。

そんなヤツらはどうだっていい。もっと大きく箱を開け放ってしまっても僕は全然かまわない。
この宝の山に出会いたまえ。

美術を志す人は、正しくうちのめされるがいい。

デザインをしている人は、色や形、エネルギーを盗みだせ(インスパイアっていうの?)。

お金がある人は、まことにすばらしいインテリアとしての美術品を現代美術の100分の1以下の値段で買うべきだ。
もし、広い白い壁のある家ならば、作品は本当にきれいなオーラを放つだろう。
そうして、誰の作品? と聞かれたら正体を隠して相手の反応を見るのも楽しいだろう。

もっとお金がある人は、好きな作家の作品を買い占めたっていい。今はまだ投資対象としてもすごく魅力的だ。

そんなふうにみんなが目の色を変える日は遠くないだろう。
だって、この作品、海外だったら飛ぶように売れると思うもの。

もうパンドラの箱は開きかけている。
誰にも閉じることなんかできないのさ。

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写真1 閉じて施錠された箱が二つ見える。これは秘密だが、その中には作家の好きな音楽を入れたテープが入っている、という。

写真2 1面に描かれているのは虫。ただ描かれただけではなく、この中に時間の経過と物語が秘められているという。左上の売約済みマークは、僕のもの♪

写真3 僕が見るところ、こういう動機をキャッチするためには、意識的でありすぎてはいけないのだ。
(写真提供はすべて中津川 浩章氏)

「工房集と仲間たち展」
開催中2月25日まで! 1時間くらいは十分楽しめます。
http://www.makiimasaru.com/mmfa/exhibition/2009/0206/index.html

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『加山又造展』 様式化する才能  村松恒平

Posted on 2月 3, 2009

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【加山又造の表面と印象】

「なんという堅固な表面だろう。
加山又造、という偉大な表面は僕の視線をはね返す」

2004年まで存命であったこの大画家の生きた歴史について僕は何も知らない。
しかし、名前くらいは聞いたことがある。
その印象は次のようなものだ。

*日本画家として大家であるらしいこと。
*金や銀や赤をあざやかに使う。
*華やかで誰にも好かれる大胆でわかりやすい作品群。

作品はどこかで一つ二つ見たことがあったが、個展は初体験である。そんな作家を見て、ヘタうま大好きの僕は何を思うだろうか?

【いざ会場へ】

展覧会場に入ると、上記の加山又造ブランドの印象を裏打ちする大作が3点、ドンと一発かましてある。
特に正面はうねる銀色の波に浮かぶ銀の月。
ポップだけれど、伝統的で、華麗でありながらしっかりとした強さがある。

あまりに完成度が高すぎて、見ているほうは、「はぁ」とため息をつきながら素直に感心するより手がない。若いときの僕なら権威的なものを感じて本能的に反撥したであろう。

それが冒頭の「なんという堅固な表面だろう」という感想だった。

展示の第一章は動物。これが初期作品だが、様式化する志向と手法はもう始まっている。まだしも作家が作品へアプローチする動機をとらえやすい作品群ではあるが、作品の完成度にはすでに全然若描きらしいブレがない。
直観的でありながら、考え抜かれいて、作品のすみずみまで作家の意志が行き渡っている。若い作家にありがちな「こんなものでいいか」とよくわからないままに投げ出したという部分がない。

構想から、仕上げまで莫大な時間とエネルギーがかかっていると思うが、自分が納得するまで決して作品を手放さない画家だっただろう。その納得できるレベルの高さと、それを実現できる技量、才能、そして志がスケールを大きくしている。

才能天分、発想、構図、技法、ていねいさ、完璧主義、凝り性、採点すればオールAだろう。

僕はその奧にあるものが見たい、と目を凝らすけれども、太鼓をいくら叩いても、『加山又造』という完成した音しか鳴らない。

正体が見えないスタイルは音楽でいうと、井上陽水を思い出す。陽水もデビュー当時、心情を垂れ流す四畳半フォークやセンチメンタルな歌が流行るまっただ中で、ひとり、センチメンタルなようで、冗談とも取れるようなレトリカルでまったく正体を見せない歌を歌い続けてきた。
その歌はわかりやすく大衆的でありながら、どこか空虚であるから、かえっていつまでも腐らない。正体なんてものはあるのかないのかわからない。
表面にすべて現しているのだから、それ以上のものはない、と本人はいうだろう。
ヘタな人間は、歌でも絵でもなけなしの肉声を晒すしかないのだから、こういうタイプは憎たらしいモノである。

僕は加山又造という巨大な壁に手をつきながら、どこかに侵入経路はないかと探し続けた。そして、ふと、お得意の銀の波濤を見ていると、それが均一な線でないのに気づいた。
線と線の隙間が均一ではなく、線の太さも均一ではない。線に筆をついだ後も見える。それに気づいて、入り口の大作に戻ってみると、やはり同様に機械的に均等に引かれた線ではなくて、どこか安心したのである。

波濤を均等で機械的に見ていたのは、僕の眼と頭脳であって、加山又造はそのように線を引く必要を感じていなかった。あるいは、わざとそのような隙を残したのだろう。

音楽をコンピュータで打ち込むときに、ドラムは意図的にわずかにタイミングをずらさないと人間らしく聞こえない、と聞いたことがある。加山又造の能力と集中力を持ってすれば、もっと均等な線も引けたであろう。しかし、そうしないほうがいい、ということを加山は知っていたのだろう。

加山又造の展覧会に行って、人はどこを見るのだろう?
僕はそんなケチ臭いところをしみじみと見ていた。

もちろん、ほかのスゴいところだって見たけどね。

【様式化とは何か?】

加山又造の才能の最も偉大なところは、様式化する力にある。「祖父は絵師、父は京都西陣の和装図案家」というから、様式化するセンスというものが血肉化しているのである。

様式化とは何か、といえば、この場合2次元化する方法論である。
絵というものは、そもそも2次元なのであるから、あらゆる絵が2次元化されているのであるが、その方法にさまざまな特徴がある。
西洋絵画の場合は、遠近法というものに基づいてなんとか2次元の中に3次元を再現しようとした。
2次元でもこれだけ3次元で見えている視覚というものを再現できる、ということを主張しているのである。

しかし、加山又造の2次元は、3次元に対してそのような劣等感を持っていない。
3次元は単なる現実であり、それ以上の価値はない。
しかし、それを無理矢理に2次元に押しつぶしてみると、そこに生じるのは虚構であり、それが美的虚構である以上、3次元より優越しているという自信に満ちているのである。

虚構は現実に従属するのではなく、現実を素材にし、バネにして、異世界を作り出す。
星や月、海や空、大地や花、それを加山又造というプレス機でつぶすと、そこからはみ出ようとするモノやエネルギーたちは、さまさざまなシンボリックな色や線、記号となって噴出するのだ。
そのことの祝祭性が金や銀の特別な色の鮮やかさの中に定着されている。
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【印象に残った作品、つまらなかった作品】

すごい作品はたくさんあるけれども、僕の印象に強く残ったのは、『奧入瀬』と『牡丹』。残念ながら2点とも使用可能な図版がない。
それだけ多くの見どころのある展覧会であり、この2点はたまたま僕の関心にヒットしたに過ぎないかもしれない。

『奧入瀬』は、横長の長大な屏風の右端から川が画面中央に向かって溢れるように流れだし、左端へと消えていく。屏風絵として初期の作品のようだが、この瀬を走る水の姿が千変万化して、まるで生きているようだ。
上流においては写実的であった水が、下流に向かって様式的な表現になっていく。
様式化の過渡的な部分がたいへんよくわかる。
この絵は好きだなあ。

『牡丹』は、遠近感を墨の濃淡であらわした作品。
黒とピンクががった白の大輪の牡丹が書かれて背後に、ほとんど墨のような色調で牡丹の葉が描かれている。
牡丹の葉は、花に近い前面のものはくっきりと描かれているが、奧まるほど靄がかかったようにぼやけていき、すぐにフェイドアウトしてしまう。
濃淡による独特の遠近法である。
こういう手法を開発するだけでなく、軽々とその最高峰まで仕上げてしまうところが凄い。

逆につまらなかったのは、裸体画。
得意の様式化の力が女性の裸体に対しては働かなかったように見える。
女性は一昔前のモデル顔で、陰毛は描かれているが、僕にとっては少しもセクシーではない。
女性のセクシーさや、生命力を描かないで、なぜ裸体を描きたかったのだろう?
あるいは人気画家としての地位があまり生々しい女体を描くことをためらわせたのか?
様式化するでもなく、ワイルドに描くでもなく、この画家には珍しく、非常に中途半端なところで苦しんでいるように見える。
本人が生きていたら、どういうつもりだったのか聞いてみたいところだ。
背景とか裸体以外の部分はすごいのですけどね。

それから、ペットっぽい猫。工芸品の意匠もつまらなかった。
工芸品、あまり欲しくならない。
しかし、欲しくないのは僕だけであって、こういうの見た途端に「はぁぁ」とため息をつき、売っているものなら買ってしまうおば様層、というのが僕の知らないどこかにいるような気がする。
なんか頭に「三越の外商部」という言葉が浮かぶ。

たぶん、僕なんかよりずっと加山又造がストライクゾーンな人たちがどこかに大量にいるに違いない。
もっと「正統かつ本流」風な人たち。

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加山又造という人は、開拓者であり、冒険家であったといえると思う。
あまりに能力が高いために、つねに自分に難しい要求をつきつけ続けないと、自己模倣に陥ってしまう。
だから、いつも新しい領域に意欲を持っていたのだろう。
そして、あまりに様式化する力が強すぎるから、冒険であり開拓であったことは、世に出るとあっという間にオーソドクスに見えてしまうのだろう。

こういう大きな人を論じることは難しい。
僕が論じたところで世の中の加山又造の評価は、上がりも下がりもしない。
蟷螂の斧、というより、蟻が象の背中で鼻歌を唄っているという気分なのである。

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安斎香代子写真展「mbili」 村松恒平

Posted on 12月 12, 2008

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とってもよかった。神奈川県民ホールギャラリー

期間ないけど、急いで上げる。12/14までに横浜に行く人はぜひ行くべし。

香代子さんはイラストレーター安斎肇さんの奥さん。

……という感じがどうでもよくなって、自立した作家の香代子さん。

美しい絵画や模様のような写真を撮るといえば、誰でも似たような写真を撮りそうなものだが、この腰が少しも引けていない落ち着いたオリジナリティはどうだ?

安易な近道を求めなかった人だけが多くの道を知る。
作家の中の空間性にゆとりがでて、自信に満ちた展示。
ストーンズでいえば『Let it bleed』みたいな。

この空間性の微妙だけど大きな違いは、どこから来るか。
これを僕なりに解明したいと強く思った展示であった。

神奈川県民ホールギャラリー

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ヴィルヘルム・ハンマースホイとイーダをめぐる夢想  村松恒平

Posted on 10月 30, 2008

『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』展に行ってきた。

彼の故国、デンマークには20数年前に訪れたことがある。
その国の印象は、平坦、単調。
デンマークには山がないのだという。
全部がほとんど平地。
空港を降り立つとレゴカラーにも通じる色彩。
なんて洒落ているのか、と思ったが、バスで移動中の外の景色もずっと同じ色彩感覚。これはデンマークでは当たり前の色で、日本のようにさまざまな色が混淆してはいない。
家々もまたレゴのようで、大きな窓にはレースのカーテンが左右に分かれていて、きれいに花などが飾ってある。
これも、最初こぢんまりとかわいいと思ったけれども、行けども行けども同じタイプ、同じサイズの家が出て来て、何の新鮮味もなくなり単調な景色になった。
観光客の僕ですらそうなのだから、この国の人々の生活感情というのはどうなっているのだろう? 
舞台装置が単調な分、心理的なやりとりは濃密なのであろうか?

デンマークには失礼な印象かもしれないが、ハンマースホイの広告で、彼の画調を見て思い出したのは、そんなことであった。

実際に展示を見ても、ハンマースホイは単調である。じつにねちっこい。
同じような曇ったような色調の絵を執拗かつ丁寧に描いている。
とくに空や、壁面の一面の塗りが独特の質感とリアリティを持っている。
形の捉え方もすっきりして美しいけれども、どの絵もざっくりとした構図で思いっきり塗りたいがためにこの構図を選んだのではないかと思わせる。

塗り塗り塗り塗り…。
見事な塗りだが、しかし、これだけの塗りを続けるモチベーションがわからない。
ハンマースホイは絵を描いていて楽しかったのだろうか?
仕事ではあったのだろうが、それだけでこれだけの集中力は続かない。
この謎がハンマースホイの塗り壁のように絵を見る僕の前にずっと立ち塞がっていた。

この執拗さはデンマークの国民性であるのか。ハンマースホイ独自のものであるのか。他国人である僕には測りようがないと思っていた。

……ところが、別コーナーで彼の同時代の友人と義兄の絵を見たときに、この謎は解けたのである。室内や人物など同じようなモチーフを扱いながら、ハンマースホイが決定的に違う点がある。

それは、他の画家が光をなんとかして捉えよう、描写しようとしていることである。たとえば、室内に差し込む光は、跳ねたり流れたりして、画家はそのありさまを観察、追跡してなんとか画布の上に再現しようとする。

ところが、ハンマースホイは、光を殺すことを考えている。光を圧迫し、制御し、なんとか画家の支配下に置こうとしている。
圧迫された光が独特の曇ったような色彩の内側でエネルギーとなっているようだ。

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「陽光習作」

(1906年 コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション B312
Photo © Pernille Klemp )

ハンマースホイのモチベーションは光を画家の力量のもとに屈服させることにあった。光と戦い続けたのだと思うと、僕にとっては謎が解ける。

しかし、ハンマースホイの家には、もう一つの光源があった。
妻のイーダである。
ハンマースホイは、妻をモデルに室内の絵をたくさん描いているが、多くは後ろ姿である。
そして、ほとんどが黒ないしは、無彩色の服を着ている。

『イーダ・ハンマースホイの肖像』では、イーダは正面から肖像を描かれているが、その肌は緑色に塗られている。現物はこの写真よりずっと緑。
この画家はイーダから何かが輝き出るのを恐れて必然性のない緑で封じ込めたのはないか。

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「イーダ・ハンマースホイの肖像」

(1907年 アロス・オーフース美術館 
Photo © Ole Hein Pedersen )

ハンマースホイの画は、基本的にリアリズムのベースがある。
しかし、ドアを描いてドアノブを描かなかったり、ピアノの脚などあるものを省略したり、何か唐突に何の説明も寓意もなく、画家が現実の景色をねじ曲げて見せる。

これは一つの静かな示威行為ではないだろうか?

**

そんなことを考えているうちに、絵の中のイーダという人が僕の中で一つの像を結んできた。あまりにも明確な像なので、そのことを書き留めておく。

イーダは若いときは、1、2枚は明るい色彩の服を持っていたが、それは箪笥の奥にしまわれて、今は地味な色の服しか着ない。

夫との性交渉は、新婚時代に数度あっただけである。それも夫が一方的に満足するだけのものであった。

新婚時代、夫に一度作品の感想を聞かれた。彼女は夫の作品がたいへん好きだが、うまく言葉にできなかった。
それ以来、夫はもう二度と感想を聞くことはない。

ときどき夫からモデルを頼まれるが、「そこに立って」とあれこれの指示の中で必ず後ろを向かされる。イーダは家具やモノのように夫が自分を見ていると思うときがあるが、とりわけそのことを悲しいとも思わなくなった。

イーダはときどき微笑みそうになるが、すぐに潮が引くように元の顔に戻る。夫との生活にはあまりそぐわないように感じるからだ。

広い家を毎日丹念に掃除すると、けっこうな時間がかかる。
イーダはときどきピアノに向かう。
三曲ほど難しくもやさしくもない、お得意の曲がある。
新しい曲を覚えようとするとつっかえてしまうので、イーダは三曲で満足である。聴く人はいない。
ただ、ビアノの音色はきれいな色彩を思い出させる。

夫の死後、堅実にその葬儀を済ませると、イーダは一人暮らしには広すぎる家にそのまま生涯住み続けた。
同じ生活。しかし、毎日静かに絵を描き続けた夫がいない。

ときどき画商が尋ねてきて、夫の絵の売却の相談をする。しかし、とりわけ生活に困ってはいないので、ポツリポツリとときどき画商の求めに応じる。

ときには、少数の友人が尋ねてきて、お茶をしていく。その頻度は夫の生前より確実に増えた。

……というような人物像である。

上記のイーダ像は、全くの夢想であって、何の史実・情報・文献にも基づいていない。ただ浮かんできたものを書いてみた。だから、信用してはいけない。
ハンマースホイの物静かな作品群には、なにかそういう物語を喚起するような濃密なエネルギーが流れている。

もし、あなたがハンマースホイ展を見に行ったら、どんなイーダに出会ったかを教えてください。

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「室内、ストランゲーゼ30番地」

(1901年 ハノーファー、ニーダーザクセン州博物館
Photo © Ursula Bohnhorst )

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『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』
http://www.shizukanaheya.com/

12月7日まで 混んでいないのでゆっくり鑑賞できます。

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