【左のポケット】その47「自然現象について考える」 長島義明

Posted on 5月 14, 2008

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激しい雷の音を聴きながら自然現象の力について考えていた。

今月になって10万人の被災者が出たミャンマーの激しい台風による洪水

、そして、一昨日の中国で起こった激しい地震。

死者は何万人に増えるかわからないが、人は自然現象の前ではいかに無力で

あることか。どれほどの知恵をもってしても自然の力にはかなわない。

多くの人が説く立派な言葉も空々しく思えてくる。

著名な政治家や教育者、そして文化人、企業の経営者たちが説く言葉も、自然を前にする時、

いかに小さい人間の立場 から思いついた言葉にすぎないか、よくわかる。

人間が吐く言葉は自信に満ちた言葉であればあるほど、傲慢で無意味な言葉 であることか。

はげしい雨が降り、雷が窓を揺るがす音を立てる昨夜、僕はその音を聴きなが

ら自分の小ささを認識した。

あらためて、この世に産まれて来た事を喜び、 生きている事に感謝しなければと考え、

そして 明日には虹が出れば良いな と思った

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【左のポケット】その46『「ブレ」のおもしろさ』 長島義明

Posted on 4月 7, 2008

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今回は「ぶれ」のおもしろさについてです。

御存知の人もいると思いますがアメリカの写真家でエルンスト ハース と云う 写真家がいます。
彼は「色の魔術師」と云われた写真家で初めて僕が彼のオリジナルプリントを見た時あまりの美しさに感嘆しました。 その中の写真に「ぶれ」のテクニックを使った作品がありました。

「ぶれ」による色の濃淡を最大限利用した作品です。

「ぶれ」はスローシャッターを利用したり、追い写しや多重露光をして表現出来ます。少し異なりますが、偏光板や手ずくりフイルターを使用して同じ様な写真を撮る事も出来ます。パソコンを使って、同じ様な効果を造れるようですが僕は残念ながらその方は知りません。

ハースの作品に初めて接したのは僕がパリにいた20代の頃です。
あらゆるテクニックを試して、ハースのような「ぶれ」の写真を撮ってみました。
その一つが今回の闘牛の写真です。

最近は流行らないかもしれませんが、僕は今もカラーのテクニックの一つとして、
こんな「ぶれ」の写真を撮ります。

デジタル時代になつて写真がだれでも安易に取れるようになりました。
それだけ、表現方法も変化していますが、フイルムの特性を生かした表現にも捨て難いものがあります。
「ブレ」による表現もそのひとつです。
どうですか、皆さんもひとつ挑戦されては。

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【左のポケット】その45「カラーとモノクロ」 長島義明

Posted on 4月 4, 2008

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最近、若い人達にモノクロの写真がうけているそうです。

現代の社会を見回してみると、あらゆる物が色彩に彩られているのがわかります。

テレビ、雑誌はもちろん、コマーシャルや台所用品、パソコンの画面、デジタルカメラ。

カラーで溢れています。美しい色、楽しいテレビ番組、お笑い、音楽さえも色彩がついているようです。

反面、現実の社会では暗いニュースに事欠きません。

若者たちはそんな現実社会を肌で感じているように思えます。

だから現実社会にない色、モノクロ写真に興味を持つのではないのでしょうか。

ここに同じ写真のカラーとモノクロを提示します。

貴方はどちらに興味を持ちますか

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【左のポケット】その44「かごの鳥、キューバ」 長島義明

Posted on 3月 22, 2008

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キューバは美しい国だ

しかし、その美しさもキューバの中だけに止まっている

体制が変わってもキューバの人達は外に出る事は出来ない

籠の中から外に出て羽ばたく事は許されない

アメリカによる経済封鎖が続く中

キューバ政府の籠は開かれないyyaydhcaeo.jpg

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【左のポケット】その43「トナカイの群れをたずねて」 長島義明

Posted on 3月 6, 2008

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冬のトナカイの群れをたずねて、北欧の北、ラップランドを往復300kmほどスノーモービルで走りました。途中、吹雪に遭い無人の小屋で一泊。トナカイは白一色の平原に点々と群れをなして、足で雪をかき、その下にある草を食べていました。持ち主はいるのですが町から遠く離れた所に放し飼いしているのです。常に移動しているのにラップ人の人たちは場所がわかるのです。此の時はそんなラップ人の老人に案内してもらいました。トナカイの群れを目にした時は感激しました。180度の雪原は僕と老人だけで後はトナカイの群れです。別に仕事で行った訳ではありません。無性にトナカイの群れを見たかっただけです。トナカイは夏になると海峡を渡り,離島で生活します。トナカイの群れが海峡を渡る光景はすばらしいドラマです。僕はその光景を丘の上の草原に座り、ノルウエーの彼女と眺めていました。残念ながらその時はカメラをホテルに置いたままで写真は撮れませんでした。白夜の北極圏の町、ハンメルフェストと云う所です。

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【左のポケット】その42「アミール湖」 長島義明

Posted on 3月 3, 2008

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神秘の湖、アミール湖

ヒンドゥークッシュの宝石

その湖は富士山より高所にある

ヒンドゥークッシュ山脈は最高峰のティリチーミール山(7708m)を始め

6000mから7000m級の山々が連なる大山脈です。

その昔、アレキサンダー大王、玄奘、ジンギス汗がこの山道を越えた。

僕はこのアミール湖で一休みをして、さらに雪道の山を北に旅を続けた。

彼等もきっとこの美しいアミール湖を見て神秘を感じ、旅の疲れを癒したに違い ない。

雪は融けアフガニスタンの大地にしみ込み、地下水となって流れてい る。

その地下水を地上にくみ出す装置がカレーズです。カレーズは田を潤し、

畑を潤し、米、野菜、果物を生み出す。

豊であったアフガンの大地は戦争により多くのカレーズが破壊され

地下水を地 上にくみ上げる事が出来なくなった。

1000年以上の歴史を持つカレーズ。

ヒンドゥークッシュの雪とカレーズはアフガニスタンの命なのです。

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【左のポケット】その41「見世物小屋」 長島義明

Posted on 2月 27, 2008

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「さー、いらっしゃい!、いらっしゃい!」

「世にも珍しい娘だよ」

「たこ娘に、ろくろく首、蛇娘だよ!」

「親の因果が此の子に報い、可愛そうに姿、形がこうなった。」

「名前はあるよ、お花ちゃんにお玉ちゃん、そして、もう一人、あさきちゃん。」
「お玉ちゃん、ちょっとお客さんに顔を見せておやり」

そばに開けられた鉄格子の窓の向こうで日本髪を結った女が、ちらりと横を向く。

「お玉ちゃんははずかしがってこちらを向かない。」

「日本全国広しといえど、たこ娘に蛇女、ろくろく首の娘に会えるのはここだけだよ。」

「そこの坊ちゃん、お嬢さん、おかみさんに旦那さん、後学の為、話のネタに

さー、入った、入った。見ていらっしゃい。」

「お代は1000円、さあ、お玉ちゃんが待ってるよ」

天満橋界隈の大川沿いに桜が咲いて、造幣局の通り抜けが始まると百を越す屋
台の隅で見世物小屋が立っていた。昔懐かしい、客を誘う呼び込む男はだみ声で、マイク片手に話しかける。

一昨年の通り抜けでは見かけたが、昨年、小屋は見かけませんでした。
なんでも大阪市の教育委員がクレームを付けたと云う事だ。人権上よく無いと
、長く続いた庶民の娯楽、規制するのは役人達の得意技。
こうして、いろんなものが消えて行く。

でも、僕には懐かしい。
夜店にお祭り、お花見と、屋台が出て、お化け屋敷や、見世物小屋が立ち、綱渡りする男や、火を吐く男、包丁売りの講釈に、がまの油売りや、バナナの叩き売り、あめ細工、小鳥のおみくじ。そんな店をオヤジの腕にすがりながら見に行った。

もちろん今の様にニンテン堂の携帯ゲームなどはない時代です。
インベーダーやエイリアンより、人間的でわくわくし、興奮したのです。

バイ、ベッタン、ラムネ、ビー玉、おはじき、おじゃみ、日光写真、紙芝居、金魚すくい、木登り、缶蹴り、チャンバラごっこ、竹馬、鬼ごっこ。

げんこつあめに、素こぶ、綿菓子、べろべろ、あべかわ、練りあめ、えびせん

ニッキ、ショウがあめ湯、

今の子供より遊びの対象は多かった。

マクドとゲームはなかったけれど、そばにはわんぱく坊主の明君も、かわいいお下げ髪のミキちゃんも居た。子供は沢山そばにいた。
今の子供はなにして遊ぶ?

オヤジは昭和の昔を思い出す。

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【左のポケット】その40「アフガニスタンの思い出」 長島義明

Posted on 2月 23, 2008

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平和だった頃のアフガニスタン
長島義明

アメリカ、イギリスがアフガニスタンを空爆しだしてから僕の睡眠不足が続いている。アフガニスタンの風景や人々、子供の顔が目に浮かんで眠れない。
子供達の誰もが笑顔に満ちていた。 それらは僕が1978年9月末から11月にかけてアフガニスタン各地を旅した時に目にした風景、出会った人々、子供達。 連日、テレビ、新聞で報道される地名、カブール、クンドゥス、マザリシャリフ、ヘラート、ジェララバード。次から次と走馬灯のように目に浮かぶ。
そのどれもが美しい。今、その美しさが悲しい。

一ヶ月間ほど、僕は英語もろくに話せないアフガニスタン人と2人、彼のボロ車で旅をした。 空路でまず到着した首都、カブール。
ホテルで謡ってくれた老人、中国の胡弓に似た楽器を奏でながら謡う歌はアフガニスタン民謡。旧市街のバザールは銀細工の店が多く、肉屋や米屋に混じって鉄砲を売る店もある。羊のカバブ(串焼き)を焼く香ばしい匂いが流れ、男達はチャイハナ(喫茶店)で茶をすすっていた。行き交う人はタジク人、ウズベク人、トルクメン人、に混じりモンゴル系、インド系、イラン系の人達、稀に目の青い人もいる。さすが、「シルクロードの十字路」と云われる国だけあって、様々な人種が入り交じっている。
どの店でも旅行者の僕に親切だった。お茶を飲んで行けと茶をすすめてくれる
。これからの旅、車で旅をしたかった、飛行機では田舎の町へは行けず、バスの旅では途中、写真を撮りたいと思っても止ってくれない。
幾台かの個人営業の運転手と貸し切りの交渉をするが言葉が上手く通じない。
また、30日間も家を留守にするのを受け入れる運転手がいなかった。
諦めかけていた時、少し英語のわかる人の良さそうな男と出会った、口ひげを生やしたその男は僕の旅に車と僕の運転手を引き受けるといってくれた。ただし、家族と別れる時間が必要なので3日後から旅に出る事になった。
条件は1日、10ドル、プラス食事代である。今思うとずいぶん安く引き受けてくれたと思う。舗装されていない道を行くのは結構疲れる、そんな時、トランクから石油コンロを出して茶を涌かし、たっぷりの砂糖を入れてすすめてくれる。

カブールからバーミヤンへ。
カブール郊外になると道は舗装されておらず、すぐ地道になり、岩の多い地肌の山を登って行く。ほとんど樹木は生えておらず、わずか草の緑があるていどの赤土だ
。出会う人は羊の群れを追う牧童ぐらいで、すれ違う車も少ない。
バーミアン近くになると澄んだ川が道の側に流れる景色になり、白樺の林が川の側に白い木肌を見せていた。秋も十月になると黄色く色づく葉も散り、箒状態の
林になっていた。バーミアンの宿はホテルと云うものではなく、モンゴルのパオ
を思わせるテント張りの建物だった。真っ白な新雪をいただいたヒンドゥクッシュの山々を背景に10件ほどのパオが立つている。それが、ホテル「バーミヤン」

翌朝、有名なバーミアンの大仏を見に行った。ホテルからバーミヤンの大仏までの道は空高くのびたポプラの木が1kmほど続く並木で朝の光を受け、斜めにのびた影が縞模様を描き、清々しく美しい道であった。
その日は運転手に休んでもらい一人で大仏を見に出かけた。ポプラ並木が途切れる頃、岩肌から突然大仏の姿が現れた。その顔は無惨に切り落されているが全身の大きさに圧倒される。その下で牛を引いた農夫が畑を耕している。のどかな景色だ。バーミアンは昔、この地を治めたモンゴルの汪、ヘブライの孫が殺害され、その復讐の為、全住民が殺害されると云う歴史を持っている。そして再び侵略してきたイスラムの手により大仏の顔は削り取られる。でも、僕が訪れたバーミヤンの村にはそのような血なまぐさい面影もない平和な村であった。
バーミヤンの村からクンドゥースに向かうべく僕たちはヒンドゥークッシュの山並みをオンボロで越えて行った。山道は初雪が30cmほど積もり、嶺は白く輝いている。途中、バンディ.アミールと云う美しく神秘的な湖に立ち寄った。伝説にこの湖に住む魚は全て片目だと云う。恋を引き裂かれたバーミヤンのお姫様が身投げをして、この伝説が生まれたらしい。
湖を後にしてさらに山道を行くと、男達が土を掘ってこしらえたカマドの上に大きな鉄鍋を置き料理をしている処に出くわした。近くに民家らしき物は見当たらない。大きいテントが一つ張ってある。
鍋にはお米に羊の肉のぶつ切りを入れ、岩塩だけの味付け、それを水で炊いていた。「どこから来たのか」男は僕に尋ねる。「日本から」僕は応える。
「モンゴル人か」、男達は日本と云う国を知らなかった。
「食べて行くか」思わぬ誘いだ。僕はよろこんでその好意を受けた。
アフガンでは古くから、旅人に食べ物を施す習慣があると云う。
料理はまことに豪快で素朴だが塩味が程よく、羊の肉もご飯も申し分無く美味しかった。長老達は食べた後の羊の骨を並べ、占いをする。吉か凶か。

食事をごちそうになり、別れる時、子供達が大勢見送りに来てくれた。
「また、ぜひこの村においでよ」皆楽しそうに手をふっている。
僕は彼等の写真を撮った。「この写真を届ける為、また、この村に来るよ。約束するよ」 僕もまた手を振り彼等と別れた。
今、僕はその時の写真を眺めている。あの時から30年と云う長い年月が経っている。未だにその約束を果たしていない。住所も定かでないヒンドゥークッシュ山中の小さな村。少年達は皆笑顔で手を振っている。僕は本当に彼等の写ったこの写真を持って再びアフガニスタンを訪れるつもりであった。その翌年、ソ連の侵攻が始まり、内戦が起き、アメリカとの戦争が続いている。実に29年間も平和な時がないのだ。いつ、彼等と交した約束を果たせる時が来るのだろうか。
旅は思い出を残し、先に進む。クンドゥースはまだ遠い。雪で覆われた山々をながめ車を走らせる。巨大な城の様な岩山の麓を赤い衣装の女達が数人歩いていた。こんな山の中をどこに行くのか、なかの一人の女性は子供をおぶっている。
まるで中世の宗教画を見ている様な光景だ。
長い下り坂の道を降りて、少し開けた盆地に出た。刈り取られた田は米を栽培していた稲田である。近くを流れる川から水を引き、水車を利用して脱穀している。昔の日本の田舎を思わせる光景だ。近くの村は黄土色の土壁むき出しの家が寄り添って立っていた。川を渡る橋も同じ土橋作りだ。
クンドゥースはアフガニスタンの北東部の町、空が広く、土地が平らになる。
その郊外では綿の栽培が盛んで、赤い衣装をまとった女達が綿の実をつんでいた。話しかけたが勿論、英語は通じない。何がおかしいのか、くすくす笑っているばかりだ。カメラを向けても拒否しない。
クンドゥースはサマルカンドやタシケントに通じる要所、古くシルクロードが盛んなころは中国の西安目指してラクダの商隊が通過した土地である。しかし、僕が想像するより小さな町であった。この町では昔と同じ様な商人宿、キャラバンサライに宿泊した。一階がチャイハナ(喫茶店)になっていて、二階が宿泊する大広間だ、ジュータンが敷かれた部屋に日本と同じような布団を敷いて雑魚寝する。
長い白髪の老人を囲んでターバンの男達は茶をすすり、真剣に老人の話を聞いていた。この国では老人は知恵者として尊敬される。夜にはランプが灯され、旅人の寝息が漏れ聞こえる。この宿では昔から変わらなく客をもてなしているようだ。朝食はチャイと焼きたてのパン、パンと云っても草蛙みたいに平べったい大きなパンだ。それにバターと蜂蜜がついてくる。

マザリシャリフはアフガニスタン北部最大の都会であり、僕が訪れた翌年にソ連軍が最初に侵入した町です。僕がこの町を訪れた頃は青いタイルが美しいモスクの前で数知れない真っ白な鳩が飛び交い、実に平和で美しい光景でした。純白の鳩は平和の象徴そのものに見えました。今もあの白い鳩はいるのだろうか。

モスクを訪れる女性達は全身を隠すブルカと云う衣装を纏っているが、足下にちらりと見える白く美しいレースのズボンを見せて、それなりにお洒落をしています。ブルカの色も白、黒、青、緑、黄色、赤と様々です。それに細かい襞がつけられており、歩くと優雅に揺れる姿が美しい。中にはどれほどの美人がいるか、一度素顔を見たいと思っても、それだけは不可能です。それがアフガニスタン女性のおきてです。何百年も続いている風習だからしかたありません。

マザリシャリフからイランの国境に近いヘラートの町まではずいぶんと長い距離がある。ひたすらに車を走らせたが5日もかかってしまった。

アフガニスタンと云う国を初めて意識したのは僕がパリを拠点として旅をしていた時に知り合った一人のスイス人の話からです。その国がいかに魅力在る国か、その歴史、風土、文化、遺跡など、その青年が語ってくれた。当時、ヨーロッパの若者達の間では、アフガニスタンは旅行先として、憧れの国だった。
古都、ヘラート。この都こそ、僕の旅の目的地だった。古くはアレキサンダー大王が侵略し、1383年にはモンゴル軍に破壊され、15世紀にチムール帝国の首都になり栄えた。今もその頃の面影を残す城壁の上に立つと、街が一望出来る。その城壁に座り、市場で買ったザクロを食べる。甘酸っぱい味が口中に広がり、城壁の下で売る、物売りたちの声がここまで聞こえてくる。ロバに積んだハミ(メロン)、ブドウにイチジク、ザクロにパン、それらは何処から運ばれて来るのだろうか。
日が暮れて夕闇が訪れる頃、ランプの灯が灯りだす。道行く女のブルカが揺れて、そのシルエットがとても優雅に見える。
この町の大道りには2mほどの溝が掘られ水が流れている。カレーズだ。オアシスの町として人工的に作られた昔からの川、かってペルシャやアラブの商人はラクダに多くの荷を積み、この町を訪れ、この川の水で足を洗い、ラクダに水を飲ましたに違いない。毎日、今でもこの川のそばに市が立つ。何百年そのままの姿で人は行き交う。夕食に入った食堂でカバブ(羊の串焼き)とアラック(ブドウから作った焼酎)を注文して外行く人々を眺めて過ごした。この町ではただぼんやりと古い歴史の中に自分の身を浸すだけで十分満足だった。

カブールからジェララバードに行く途中、コルムと云う小さな村がある、羊の群れを見張っている2人の少年が、退屈しのぎに木とゴムで出来たパチンコであそんでいた。なかなか上手だ。狙った的に良く当たる。その村がアメリカ軍の空爆を受け、ほとんどの住民が死んでしまった。結婚式の集まりをアルカイダの連中の集会と間違い、誤爆したらしい。と、新聞で読んだ。逃げ惑う村人を飛来した軍用ヘリコプターの上から機銃操作して殺害したとも書いていた。
その村でしりあった子供は無事だろうか。きっと、木とゴムで出来たパチンコで、村人を殺害したヘリコプターめがけ、小石を射ち続けたに違いない。
「ばかやろー、ばかやろー」と泣きながら。パチンコのゴムを力いっぱい引いて
射ち続けたに違いない。

翌日、僕はジェララバードの町からカイバル峠を行き、歩いて国境を越えパキスタンに入った。

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【左のポケット】その39「ベニス幻想、3」 長島義明

Posted on 2月 19, 2008

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10時の連絡船に乗りベニス、サンマルコの船着き場からホテルに向かい歩いていると一人の男が肩をたたき小声でささやいた、「どうだい、死者の島のパーティは面白かったかい」そう云うと黒いマントをひるがえしサンマルコ寺院の中に消えて行った
ホテルに帰るとフロントの男が「昨夜は帰らなかったが、いい女でも友達になったのか」と云う。とんでもない、ぼくは昨日のサンミケーレ島での出来事を説明した。男は笑いながら聞いていたが、まるきり信用していなかった。だが、島には口のきけない墓守が一人住んでいて無人島ではない事を教えてくれた。死者の島、サンミケーレで見た事はどうしても夢だと思われない、もう一度島に行ってみよう、口がきけないが墓守が住んでいるならなにかわかるはずだ、絵を描き、手まねで少しは聞きたい事を理解してくれるだろう。僕はその翌日、ふたたび連絡船に乗ってサンミケーレ島に出かけた。船には墓参りに行く3人の老婆が乗り合わせた。老婆に墓守のいる部屋を教えてもらい、僕はひとり訪ね、墓守に身振り手振りで昨夜の事を話した、言葉はわからないが耳は聞こえるらしく、なんとなく理解してくれたようである。墓守は僕の話を聞いて何を思ったのか、手を取り墓場の方に案内して行く。海に近い墓場の草をかき分け何かを探している様だ
、30分程探し、やっと目的のものを見つけたらしく、僕を手招きした。そこには今まで見た事もない30センチほどの動物の死骸が横たわっていた。墓守が指で突つくとかすかに動く、まだ死んでない様だ。近づいて見ると美しく虹色に変化する顔の中に目があり、その目から涙が流れている。魚ではない、鳥でもない、犬でも猫でもない、なんだろう。小さい手のようなものと足のようなものがついている、墓守はなにか口をあけて説明しているのだが声はでない。僕は墓参りにきている3人の老婆の事を思い出し、墓守を老婆の所に連れて行った。老婆の説明によると、墓守は草葉の陰に居るのは「死者の亡霊」だと云う。
年に一度、仮面祭りの時にこの島に帰って来る亡霊の中のひとりが飛行物体に乗り遅れ、取り残されたそうだ。老婆もその説明を信用していないらしく笑って、その不思議な生き物を見に行こうともしない。僕は墓守とその生き物がいる草むらにもどり、写真をとった。墓守はその生き物を優しく抱き上げ、海までいって、放した。不思議な生き物は静かに沈んでいく。それが死者の亡霊であるかどうか僕にはどうでも良かった。ただ、涙を流し続ける不思議な生き物のことは生涯忘れられないだろうと思う。
ベニスは不思議な町である。古い時代の面影を残す町は他にもあるが、ベニスの様に海に囲まれ島全体が中世の建物でなりたっている町はない。僕はこの町の持つ雰囲気が好きで度々訪れている。夏のベニスは世界中から来る観光客でいっぱいになり騒々しいが、冬のベニスは仮面祭りの日を除いて本当に静かだ。夜、飲んで細い路地を歩くと自分の足音が石畳に響き、誰か後ろから付いて来るのではないかと振り向く時がある、運河が多いこの町には車は入れない、音といえば時折狭い運河を行くゴンドラの漕ぐ音がギィー、ギィーと聞こえるぐらいである。いつ、どこに死者の亡霊が現れてもおかしくないほどの静寂につつまれている。この町には土がない、すべて石だ。ただ墓場の島、サンミケーレだけは土の地面がある、この島に渡ったときに感じた。土はなんと生臭く、暖かいものか、この物語りはまるきりの創作でもない、僕が経験し、酔って夢に見た事をベースにしている。ベニスにたった一艘しかない黄色のゴンドラ、花嫁が乗るのか、死者が乗るのか。祭りの日を過ぎると消えてしまう仮面の男女は死者の亡霊ではないのか、真夜中のサンマルコ広場の空に浮かぶ仮面はなにを語るのか。ベニスに居ると毎晩ワインを飲み過ぎ、夢か現実かわからなくなる。        終

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【左のポケット】その38「大阪のリヤカーマン」 長島義明

Posted on 2月 18, 2008

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風の便りに聞いた。

東京の12チャンネルテレビ番組でリヤカーマンが、過酷な砂漠を横断している、と云う事を。

なんでも、リヤカーを引きながら旅を続ける冒険家だそうです。

大阪に住んでいるとそんなのは別に珍しくもなんともない。毎日、目にする光景です。

もっとも、大阪のリヤカーマンの場合は日々の生活がかかった仕事ですが。

リヤカーに積む段ボール紙の量は半端じゃない。

異国で砂漠をゆくリヤカーマンも大阪で重たい荷を引くリヤカーマンも

共に体に気をつけて、がんばってと、エールを送る事にしよう。

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