【心眼眼鏡】2  橘川幸夫

Posted on 6月 6, 2007

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3.日々方向音痴

 僕が大学に入ったのは1968年なので、なんとも賑やかな時代シーンであった。そのカオスの中で僕らが発見したことは「シフトの視点」というものであった。固定概念を真逆の視点から見るということである。僕らは「政治の文学化と文学の政治化」というテーマで動いていた。僕が書いたアジビラのコピーは「先ず壊より始めよ」であったし「権力に意志を投げろ」であった。なによりも、正しいことを正しいとしか言えない奴を嫌っていたし、そういう態度こそが敵だと思っていた。ある思想家が、僕は古今東西の思想の中身を読んできたのではなく、文体だけを読んできた、と書いていて、なるほど、すべては文体だ、とも思った。中身や本質はたかだか数千年の人類史で変わるわけがない。

 それから幾星霜。見渡すと正しいことを正しいとしか言えない人たちで世界が埋まっている。やだやだ。そんな正しさに何の意味があるんだ。それでも生きていたのは、そうした正しさを一皮剥けば、誰しもがオリジナルな人間を持っていることを感じていたからだ。表面的に才能あふれる人は、むしろオリジナルな人間の本質に対して記憶喪失になっていることが多い。才能で本質を粉塗するのではなく表現すればするほど剥き出しの裸の本質に至るというのが表現の意味というものではないのか。

 安倍晋三さんの本質はどこにあるのか。恐らく彼は人に嫌われることが当たり前の人生を送ってきたのだろう。岸信介の愛溺した孫である。それだけで幼年期から青年期にかけて、朝日新聞的な「正しいことを正しいとしか言えない」連中たちに虐められてきたのではないか。彼の朝日新聞に対する感情は怨念のようなものであろう。松岡利勝さんの自死はどうか。いじめっ子ほどいじめられた時の防衛力が弱い。政治家の自死は個人的なスキャンダルの背後にもっと大きな力が働いているものだ。1人の人間が死んだのだ。政治的なコメンテータとして評論するのではなく、文学として折角の同時代に生きた人間を失ったことを悲しむべきではないのか。

「談合摘発」は一見正しいことのように見えるが、しかし、そのことで誰が一番利益を得るのか。国民なわけがない。談合があろうがなかろうが予算は捻出され配分されるのだから。日本型談合システムが地域コミュニティの関係性を支えてきたわけだから、これが崩れれば、誰でも入札に参加出来て、金融力のあるものだけが生き延びる。それは大手ゼネコンだけではない。

 企業が株式の持ち合いを廃止して、業界内でM&A戦略でガリバー化して生き延びようとしている。それがあたかも「正しい時代の流れ」かのようにマスコミや学者がアナリストがあおりたて、愚かな企業経営者が流れに乗った。日本型混沌秩序を整備して大きくなった巨大企業は、やがて、より大きな資本に吸収される。かつて小さな地上げ屋が小規模な地主の間を走り回って土地を更地にしたところに、巨大金融資本が高層ビルを建てたのと同じだ。本当はM&Aの時代こそ、組織を解体して中小企業へと分散させなければならなかったのに。それが政治当局の役割だったのに。

 正しさという暴力がテレビで猛威を振るっている。そんな時代、せめて、林檎の芯を取ってハチミツとシナモンとバターを混ぜてオーブンで焼き上がる時間を楽しみたい。

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心眼眼鏡  1 橘川幸夫

Posted on 4月 13, 2007

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1.都市がいもなく

都市とは「見る場所」であり「見られる場所」である。僕たちは
「見る」ために都市に集まった。新しいもの、不思議なもの、奇妙
なもの、普通なもの。都市は好奇心を持つ人であふれかえった。た
だし、都市の多様さは、集まった人たち自身の多様さにすぎなかっ
たのだが。

見るために集まった人を、他の人が見て、それをまた他の人が見て、
という連鎖が都市の視線のバブルの正体であった。そのネズミ講的
連鎖はやがて破綻する。

破綻した時、テロが起きた。都市の破綻は、一層のシステム化を促
進する。自動車のスピード違反を監視するために作られたシステム
が一気に暴走するテロリスト個人を監視するためのものとなった。

都市は「見る」ことを主体においた機能から、一気に国家システム
によって「見られる」空間になった。そのことに気づいた若者たち
は、部屋に引きこもった。インターネットで「見る」ことに主眼を
置いた生活をしながら、メールアドレスは拒否するという生活を開
始した。

見ることより、見られることが過剰になった世界をファッシズム社
会と呼ぶ。

僕たちは常に見られている。
僕たちは常に、次に何をするのかを見られている。
その上で、何をすれば良いのだろうか。
そうさ、見返すしかないではないか。
国家を見返すしかないではないか。

渡辺順太郎は見る。池田冴子は見る。見ることによってでしか、見
続けることによってでしか、未来はない。明るい未来とは言わない
が、未来がないというのは、本当に困る。

僕は一台のデジカメを手に入れた。国家が監視しているカメラが映
したものを作品として見たらどうなるのか、というようなことを考
えていた。半年ぐらい、積極的に街に出て、見返すことをしてみた。

「闇の中に現れてくるものは、現れて来る闇だ」というような言葉
は、モーリス・ブランショだったか。デジカメで見ることによっ
て現れてくるものは何であったのか、今は説明しない。

とまれ、
第三次世界大戦は大いなる視線大戦になるのだろう。
万国のニートたちよ、視線を武装せよ。

2.中尾見えてる

そして、僕たちは、都市の中で生まれた。見る・見られるが混沌と
一体化した胎内で生まれた。

あれは1970年代の後半、東京の乾いて汚れた空の下に、カリブ
の風が吹いた。記憶は定かではないが、確か、ジャマイカのラスタ
マンであるボブ・マーレーは、こんな言葉の風を送り込んできた。
「見えないものは悪魔、見えるものが人間。そして最大の悪魔は、
見えているのに見えないふりをするもの」と。見えているのか、見
えていることに自覚的か、そして見えているものの行動とは何か。
その風の言葉は、まるで新聞の特ダネのように、僕らの心に配達さ
れた。

見えていることからスタートしたはずである。見ようとしたわけで
も、見なければならないわけでもない。そのような行為は逆に、見
えているものを隠蔽する。最初から見えていたものだけが真実だ。

1970年代後半、僕は「カメラは鉛筆だ」というコンセプトを作
った。カメラは特別な日の記念写真ではなく、特別な芸術家の創作
道具ではない。カメラは鉛筆だ、まぎれもなく。それは、日々の思
いと在りようを僕に伝えてくれる新聞記者が愛用していた鉛筆であ
る。僕にとってあなたとは新聞記者以外の何者でもない。僕もまた。

あれから何十年もたっているのに、まだ見えないふりをして、カメ
ラを20世紀レベルの芸術の道具にしようとしている人がいるのに
は笑う。一番大切なものは、非日常的な断言ではない。日々のたわ
いのない愛すべき、そして残酷な時の移ろいだ。

時と戯れることが21世紀の基本テーマであるということは、拙著
「暇つぶしの時代」(平凡社)をご覧あれ。

3.心眼眼鏡

ファッションの変遷史をまとめたことがある。防寒から始まって、
部族の発達とともに権力者の権威誇示、階級証明としての衣服の時
代が長くあった。そして近代の曙とともに自己主張という個のエゴ
イズムの発露の時代が始まる。

そして行き着いた世界が肉体をおおうものから脱衣装の流れである。
80年代バブルの時代のボディコンシャスというのが衣服史にとっ
て新段階への分水嶺だと思う。肉体をおおうものから肉体を誇示す
るためのものに変容したのである。都市の村祭りであるディスコか
ら始まったその流れはネオテニーのように原始の場所に誘導し、そ
の先のクラブで始まったのがタトゥーである。最も現代的なファッ
ションが原始的なタトゥーでありボディ・ピアッシングであるとい
うことは、すでに説明の余地はないだろう。それは衣服を脱ぐこと
でしか示せない衣服であり、肉体と同質化した衣服である。

この先に起こりうることは見えている。筋肉にエンジンが組み込ま
れ、鼻奥にセンサーが設置され、そして、コンタクトレンズはデジ
カメになるだろう。見えているものをただ見るためだけのカメラ。
あなたが見えたのと同時に僕にもテレパシーのように見えてしまう
カメラ。「心眼眼鏡」とは、僕が名付けた、その時のコンタクトレ
ンズの商品名である。僕たちはネオテニーの新しい螺旋階段に向か
っている。

(つくづくつづく)

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