[美術事始余話] 幕末の髷2

Posted on 7月 4, 2007

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前回の絵、幕末の侍の細い月代の髷は、江戸では「講武所風」なんて呼ばれていたらしい。上の画像の塑像は三年ほど前の作品だが、同じく講武所風の髷を結っ た男の顔だ。モデルは斎藤一。新選組の副長助勤にして隊内屈指の剣の達人。
会津戦争時は負傷中の土方歳三に代わって、新選組を率いる隊長であった。激戦の中を奇跡的に生還し、藤田五郎と名を変え大正期まで天寿をまっとうした。

今の所、戊辰戦争期までの斎藤が、どんな髷を結っていたかなどの史料が出ていないので、この「講武所風」はあくまでも私の想像図だ。近藤勇の有名な 写真のように、月代を剃らない、総髪を結った髷という選択もあったのだが、箱館戦争を生き残った中島登(なかじまのぼり)が描いた「戦友絵姿」の「山口二郎(斎藤の変名)」は、細い月代があるように見えるので、可能性の高さから講武所風の髷とした。
髷は解らないが、幸い斎藤は後に写真を残してくれているので、顔の造形と表情のイメージは大変楽だった。新選組研究家の方々の情熱とその成果のおかげだ。
写真のひとつは明治十年の西南戦争の凱旋写真。この時、藤田五郎(斎藤一)は数えで34歳。30年ほど前に出版された『警視庁百年の歩み』という本に収録されており、早稲田の古書市でたまたま入手できた。いかにも強そう!な面構えに驚いた。明治十年から十年をさかのぼった、慶応三年ごろの新選組在籍当時の斎藤をイメージしたのが、上の像だ。
そして像の制作後、御子孫の元に残された晩年の写真も研究家が発掘され、『歴史読本』(新人物往来社刊)に掲載された。年をとっても、強そうな顔をしているのが、不鮮明な画像でもよく感じられた。

斎藤は若いが無口で落ち着いていた人だったようで、近藤や土方からすれば大変頼りになる部下だったようで、暗殺やスパイなどの任務もぬかりなく行っ たようだ。しかし、会津に残ってからの彼の生き方を見ると、大変に律儀というか、熱い男なのだ。人間は一面だけ見てその人のすべてだと思ってはいけないな、と感じさせる。
画像の像も、ちょっとした角度によってずいぶんと表情が違って見えることに、今更ながら気づく。立体って面白いな、と素直に思う。

私が「幕末」を好きになったのは、中学生の頃なのだが、この二十年で驚くほど新選組研究は進んだ。もはや把握しきれないほどの文献があり、超マイナーな隊士までフォローされている。本当に凄い。
しかも新発見するのは、大学などの研究機関のエライ先生よりも、在野の研究家さん達の方が圧倒的に多いのだ。そこも幕末研究の面白いところだ。
私にはもう新選組関係での新発見はほとんど無理そうだと諦めて、ここ数年はもっとマイナーの幕臣や花魁などの研究の方に移っている。

次回はこの「講武所風の髷」の「講武所」にいた、或る大変ついていない侍(でも美男)について書きたいと思います。

参考文献:『新選組・斎藤一のすべて』新人物往来社

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[美術事始余話] 幕末の髷1

Posted on 6月 28, 2007

「幕末の武士」 2007年 筆者作 画用紙、コンテ

高橋由一が横浜でワーグマンに油画を学び始めた慶応二年頃の制作とされる「自画像」。まだしっかりと髷を結っていて、由一がただの明治人ではなく「幕末-明治人」であることを見る人に認識させる。
もし由一の画集や図録を持っていて、この「自画像」を確認できるなら、デッサンの狂った魚類系の表情に目を奪われてしまいがちだけれど、ちょっとだけ髷の方を見てみよう。

頭頂部の髪を剃った部分を一般に「月代(さかやき)」と呼ぶ。幕末になると、この月代がグンと狭くなる(正確に言えば、狭く剃る人が出てきた。流行した)。私たちが時代劇で見るたいていの髷のカツラよりも、本当はずっとずっと狭かったりした(もちろん月代が広い人もいっぱいいた)。
由一の自画像の月代部分もよく見るとかなり狭い。幸い、慶応年間にはもう写真術も日本に入っていたから、同時代の人々の姿も白黒写真で見ることができる。被写体の男達の髷の形はさまざまだが、月代は時代劇のカツラよりも狭い場合が多い。
太平洋戦争以前、昭和初期の時代劇のカツラも、幕末が舞台の場合は月代が狭いことも多かった。まだ幕末に若者だった人々が存命だったし、実際に髷をして刀を持って生活していた人の「目」が生きていたのだろう。
もう少し遡って、明治時代の挿し絵で描かれる幕末の侍達の月代も狭い。そりゃちょっと前までは江戸だったのだから、髷がいったいどんなモノだったのか、よく知っている人も多かったろう。

上の画像は、画用紙に黒と茶色の二色のコンテで描いた近作。特に誰を描いたというわけでは無いが、「幕末の侍」ってこんな感じ、という私の中でのイメージだ。ふと振り返ると、この「細い月代」をずいぶんと描いたり彫刻で作ってきたりした。たかが髷かもしれないけれど、現在「当たり前」「普通」になってしまっている様式に、古写真や錦絵と比べて、「本当は違ったんじゃないの?」と疑問を持つ作業は楽しい。「髷」も何回かに渡って作品を交えて紹介したいと思う。

この[美術事始余話]では、文字通り「余った話」をちょろちょろと書いていければ、と考えています。

上の画像: 「幕末の武士」 2007年 筆者(平野太一)作 画用紙、コンテ

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『「美術」事始』連載第2回 「高橋由一 展画閣の夢」 平野太一

Posted on 5月 19, 2007

                               「慶応年間の高橋由一」平野太一画

- 手探りの男 -

彩料、カナ箆、交色板、画道、そして展画閣。
どれも聞きなれない単語だが、由一が『高橋由一履歴』他の書き残した文中に登場する言葉だ。彩料は油絵の具の元になる顔料、交色板はパレット、カナ箆はたぶんパレットナイフ。画道や展画閣については、また後にふれたい。

高橋由一は、文政十一年(1828年)二月、江戸の生まれ。前回紹介した西周(にしああまね)は、文政十二年の二月生まれだから、ちょうど一歳違いだ。同世代と考えて良いだろう。
同じ幕末から明治にかけての「美術」のコトハジメに関わった者同士。しかしその生涯はまったく異なる。共通するのは、先駆者ならではの強いエナジーを晩年まで吐き続けていたあたりだろうか。

誤解されがちなことだが、由一は西洋画の「開祖」というわけでは無い。由一が油絵の画法を学ぼうとした時、すでに国内の先人達による蓄積がある程度はあった。由一が最も影響を受けたとされる、すでに故人だった司馬江漢をはじめ、蕃書調所(画局)時代の師でもある川上冬崖や同僚の先輩たち。由一とは直接関係は無いが、葛飾北斎も油絵を研究していたなんて話もあるし、名も無き日本人キリシタン達の残したイコンなども初期の西洋画に分類されている。
では、いったい何が由一をパイオニアたらしめているかと言えば、西洋画の技法を研究し実践する、という所から一歩進んだ、「油画を描いて発表して生きていく」ことを開拓した最初の人物、つまり我々が「洋画家」と呼ぶような存在の元祖、であるということに尽きるだろう。

なにせ油絵を描くための道具もろくに無い時代だから、すべてが手探りだ。油絵の具も自作。筆も職人さんに頼んで特注で作ってもらい、前記のパレットナイフは、西洋包丁の古いのを仕入れてきて削って使ったり、竹や鯨のヒレ(髭?)を削ったものでも代用したりした。
「布地ヲワクバリスル」(キャンバスを貼る)ための道具には、「煎餅ノ焼形ヲ買取リ」独自の加工をして用い、パレットである上記「交色板」には「代用ニ刺身皿ノ古キヲ以テシ」、など身の回りで調達しやすい道具を自らの目と感触で選び、使いやすいように改造して、油画制作に用いたのだ。
後に幕府の海外使節団が出発する際に官費で取り寄せた油絵の道具一式「油絵彩料筆刷油液諸器械等」が長持に入って画局に届いた時は、学生個人に渡る物では無いと解っていても「喜悦限リナク」と一同大喜びしたそうだ。

慶応二年、油画を日本人より習うことに限界を感じた由一は、横浜の居留地に外国人の師を求めて出かけた。その時に頼りにしたのが、由一いわく「親友」である岸田銀次(岸田劉生の実父!)。ちょうど岸田は医師ヘボンの書生をしており、由一はヘボンに油絵を教授してくれそうな人物を紹介してもらおうと考えていた。色々あってなんとか英国人・ワーグマンに学べることとなり、以後、画法だけで無く絵画理論や西洋の美術を取り巻く事情なども教わっていたようだ。
そんな中で生まれた夢、いや由一の以後の人生の目標のひとつが、冒頭で挙げた単語「展画閣」だ。

- 「美術」でなく「画」 -

「展画閣」は具体的に今の言葉で表現するなら、たぶん美術館、もしくは大きめの画廊のような建築物を指しているようだ。油画を常時展示できて、一般庶民も自由に見に行くことができるスペース。由一は明治維新前にすでにその構想を持っていたらしいから驚かされる。
「美術館」と名前が付いた建物は、明治十年の内国勧業博覧会で登場するが(この時、由一も作品を出品していた。前回のトップ画像がその開会式の様子)、今で言うところの特設の博物館のようなもので、由一が理想としていた「展画閣」とはほど遠いものだったようだ。日本における本格的な美術館の誕生は、由一の死後、数十年も待たねばならない。

ここで注意しなければいけないのは、由一が造築を願ったのは「展画閣」であって、「美術館」では無い、ということだ。高橋由一には、これからもたびたびこの『美術事始』の連載に登場していただくことになる、日本の「美術」の始まりに欠かすことが出来ない中心人物の1人なのだが、当の由一自身は「美術」という言葉をそんなに好きでは無かった。そうとしか見えないから面白い。
なんせ『高橋由一履歴』にしても、明治政府に提出した書類にしても、「美術」という単語は、ほとんどまったく使っていない。しいてあげれば、「工部美術学校」などの固有名詞の中で用いているくらいなのだ。
「美術」が一般に定着したのは、明治の半ば以降らしく、由一の人生の終わり近くまで、そんな言葉は使う必要が無かったから、とも言え無くないが、今の目線で見ると、わざと「美術」という単語を避けているようにさえ見えてしまう。

由一は自他共に認める変わり者だったようで、『由一履歴』の中にも「開成所画局ノ憎マレ者」「大邪魔者ニテ困ルト評判」などと自身が組織の中で特異な存在であった事を語っている。良く言えば、強い意志と決意を持った先駆者らしい気質。悪く言えば、かなりの頑固者でヒネクレ者。

「美術」という言葉がほとんど使われない代わりに、たびたび用いられるのが、「画学」や「画道」など「画」が付く言葉だ。特に「画道」は要所要所で力強く用いている。自らの画道を究めるためだけでなく、その隆盛のため(社会に普及させるため)に、多くの人と交流し、また多くの弟子を持ちその技術を伝えた。

- このあたりが先駆者 -

明治六年、由一は画塾を開いた。その名も天絵楼。弟子は70名ほど集まったというから、けっこうな大所帯だったろう。
同年のウイーン万国博覧会やこの前年の湯島聖堂で行われた博覧会(前回の「明治五年のできごと表」を参照ください)に由一は油絵を出品している。博覧会や万博の類には、以後も洋画の第一人者として出品を依頼される立場になっているのだが、そこは「憎マレ者」の由一、たぶん「官」主催の展示だけでは、およそ洋画は普及しない、つまりこれでは自分たちは絵で喰っていけない、と考えたのだろう。
明治九年、前年に天絵社と改称した画塾を会場に、毎月一回、教員と学生の作品を一般に公開するようになる。

制作者自らが発起して、展覧会を企画する。今では当たり前のことだが、一般の人にも見てもらうとなると、当時はかなり珍しいことだったろう。油画が写真と同じように、見せ物的な要素を持っていた時代だったことを差し引いても、現在の美術作家の活動のルーツが由一にある、と感じる実績のひとつだ。
由一が発案して行った事はそれこそ山ほどあるが、私が気になったものをいくつか挙げるとすれば
・競争会の開催 毎月課題を設けて学生達に鉛筆画を描かせ、優等者には賞品を与える。
(今でも美術予備校ではこんなコンペがよくある)
・学生の中で画材、絵の具を製造販売する者を許可し、一店だけだと独占で品揃えも充実しないから、二店にして競争させた。
(製造する者がいないと、画材も思うように買えないから、必然として生まれた発想だろう。由一は絵画技術だけで無く、今で言う画材メーカーすら育てた)
・天絵社の展覧会の開催の告知を、日刊新聞にて掲載する。
(草創期の日刊新聞にも由一は人脈があった。前述の岸田銀次は東京日々新聞の編集部に入る。前回の西周の同僚に)

まさに開拓者として、もうなんでもやった男だった事が解ると思う。
日本の近代美術史の始まりと言うと、すぐに岡倉天心やフェノロサ、または黒田清輝を挙げる人がいるが、もう一度目ヲカッポジッテ、由一が成したことをよく見て欲しい。

高橋由一や岸田銀次、ワーグマンやポンペにはまた登場いただくことになると思うが、今回はこの辺りで。
次回はいよいよ幕末の江戸のトップアイドル!にして由一のモデル、稲本屋小稲を紹介します。

参考文献:明治25年『高橋由一履歴』
昭和51年 「日本の名画2 高橋由一」 中央公論社
平成6年 『日本近代美術と幕末』 匠秀夫著 沖積舎

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[美術事始 1]「美術」の誕生 平野太一

Posted on 4月 8, 2007

『内国勧業博覧会 開場御式の図』(楊洲周延画 明治十年)

- 「美術」の生まれたあたり -

よく噛まないと駄目でしょっ!なんて食事中に注意される子供のような時間だったのかもしれない。
「美術」という言葉が生まれたのは明治五年くらい。それは長かった江戸の世が、本当に終ってしまったことを人々がようやく実感し始めた頃だ。

明治元年、二年、三年とまだ江戸は続いていた。政権は移り、都市を支配していた幕府と幕臣たちはちりぢりになって「東京」なんて名前が付いたけれど、そこに住む町民たちの生活はさほど変化してはいない。
まだみんな髷を結って着物を着て、下駄と草鞋を履いて蕎麦をすすり、花魁と歌舞伎役者は相変わらずアイドルで、300年近く続いた太平の時間の名残の中で暮らしていた。しかしその裏では、新政府の役人たちはおよそ捌ききれるはずもない問題を片っ端から、そして荒っぽく処理している。
明らかな人材不足ゆえに、罪人であったはずの戊辰戦争時の敵(幕府側。賊軍などと呼ばれる)まで獄から引っ張り出して登用している有様だった。特に西洋の事情に詳しい人間は貴重であったから、榎本武揚ら留学経験者にはその知識と語学能力を活かす場はいくらでもあった。
殖産興業、脱亜入欧、文明開化、後にそんなスローガンの付く時代。欧米の文化、風習、言葉がろくに咀嚼もされないままに取り入れられて行く。なにもかも“はじめてづくし”のフルコースで、ゆっくり噛むこともできずに慌てて飲み込むだけ、傍目にはガッついているようにしか見えない慌ただしい日本。
そんな中、英語の「fine arts」に「美術」という訳語を与えた人物がいた。

- その男、巨眼で天パ -

西周(にしあまね)。歴史の教科書には載っていないかもしれないが、幕末や明治を好きで調べている輩にとっては、いたるところに出没する、無視しようとしてもいつの間にか視界に入ってくる、そんな印象を持つ人物。
上記の榎本武揚らとオランダに留学していた30代の頃から晩年まで、わりと多くの肖像写真が残っている。その容貌から個人的に感じたことを挙げれば、まず目がデカイ。はっきりとした二重で、顔の真ん中にドカンとある。瞳の力も強く、写真栄えするタイプだろう。そしてかなりのクセっ毛。今で言う天然パーマ!。留学中に撮影したまだ髷を落としたばかりの若い頃のなんて、もう顔の左右両端(耳の上)に毛糸玉が乗っているように見えるほど。
髪は年齢とともに減っていったが、目がデカイのは晩年まで変わらなかった。

新村出編『広辞苑』によれば、「啓蒙思想家。石見津和野の人。~略~
フィロソフィアの訳語〔哲学〕は彼による。〔1829-1897〕」と、「哲学」という言葉を作った人物として紹介されている。
そして、ここではおよそ書ききれないほど彼の経歴は複雑だ。
ペリー来航の嘉永六年、西は津和野藩士として江戸での任に赴き、黒船騒動の中、洋学熱にとりつかれた。9年後の文久二年には念願だった幕府派遣の留学団のメンバーに選ばれ、渡欧。(留学中の西らの動向に関しては、別の機会に参照したいと思う)慶応元年末に帰国した後、正式に幕臣となり、京都で洋学塾をやったり、将軍・徳川慶喜のフランス語のコーチをしたり、政治顧問をしたり、日本最初の憲法草案「議題草案」を起草したりと多忙な生活を時代の変わり目の中心地のすぐ傍らで送っている。
慶応四年の戊辰戦争が始まった時には、すでに数えで40歳になっていた。

- 百学連環、芸術、美術 -

幕府の瓦解後、西は他の幕臣たちに招かれ、沼津で兵学校の頭取となったが、明治三年には、新政府の命で東京に呼び戻されている。勝海舟の推薦から、山形有朋にスカウトされ、兵部省の翻訳局事務官というポストを与えられた。
そして政府の仕事とは別に私塾「育英舎」を開く。ここで多くの訳語が生み出されていくのだ。

「百学連環」。聞きなれない言葉だが、現在では「百科事典」と訳される「Encyclopedia」に関する講義の名称として、西が用いていた訳語だ。
その語源をも理解して漢字をあてている。「無数の学問が環のように連らなる」。
西周は、西洋の学問体系が東洋のそれとは全く異なることをいち早く見抜き、思索していた。語学や史学、心理学、哲学、そして芸術を同時に学ぶことがより異文化を知る近道になることも知っていたのかもしれない。
西の親戚にあたる森鴎外の著した『西周伝』には、明治四年の段階で、その授業の中に「博物学」や「審美学」の科目もすでにあったということが記されている。
「美術」の訳語を初めて公にしたとされる『美妙学説』の成立年は、まだはっきりとは解っていないが、「liberal arts」に「芸術」の訳をあてた最初の記録が、この「百学連環」の講義だった。

- 噛み砕く男たち -

西は明治六年、森有礼、留学仲間の津田真道、そして近代日本語訳のもう1人の雄・福沢諭吉ら共に、明六社を設立し、以降も多くの訳語を残している。

異国語という原稿用紙のマスに収まるほど小さな黒船、しかし無限で無数の相手に対して、日本人すべて(やがて漢字文化圏すべてに至る)を代表して真っ先に毒見し、咀嚼し、歯の無い幼児でも食べられるようにしたヤツら。その1人が西周だった。

およそ135年前の知識人たちのこんな試行錯誤が、なぜだか身近に見える時がある。
前世紀末(1990年代後半)のコンピューター用語や現代美術の日本語訳の失敗を目の当たりにしたからではないか、などとも思う。
マルチメディア、インスタレーションといった我々がカタカナで用いることが多い言葉も、西や福沢なら、もっと上手く、漢字で使いたくなるような訳し方をしてくれるのかもしれない。

今回、「美術」という言葉そのものがどんな中で生まれてきたのか、その名付け親について、を述べてみたが、以降は当時の日本人にとって、いったい「美術」とはなんだったのか?、絵画や彫刻の制作者たち、それを報じた記者たち、創作の対象物であるモデル、様々な角度で取り巻く人々に関して探っていきたいと思う。
彼らもまた美術を“噛み砕いた”ヤツら、なのだ。
明治五年を中心とした前後の十年、そこに美術のコトハジメがある!(と思う)。

参考資料:『西周伝』 森鴎外著(明治31年発行)
『幕臣列伝』 綱淵謙錠著 中央公論社

明治五年のできごと(ここでの表記は旧暦を用いる)

1月 新貨採用はじまる(100文が1銭に。条例制定は明治四年)
2月 東京日日新聞、条野伝平らによって創刊
3月 東京最初の博覧会である「湯島聖堂博覧会」が開かれる
4月 高橋由一、新吉原稲本楼の花魁・小稲を油画にて描く、と報
5月 鉄道(蒸気機関車)、品川-横浜間で仮営業
9月 鉄道、新橋-横浜間が開通
10月 富岡製糸場、創業開始
娼妓解放令
12月 太陽暦(新暦)への移行

画像:『内国勧業博覧会 開場御式の図』(楊洲周延画 明治十年)

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