「意図されたものとされないもの」 伊藤寛明

Posted on 3月 3, 2008

都市部で生活していると、身のまわりを「意図されたもの」に囲われていることに、たまに息苦しくなってくることがある。街中を歩いていても、あらゆるところに設計者やデザイナーの意図を感じ、モノの納まりに「へー」とか「ほぉ」とか「やるねー」と関心する時もあれば、そんな日々がしばらく続いたりすると、ある時から飽和状態になり、「もういいよー」とうざったく感じる時もある。新聞に挟まれてくるデザイナーズなんとかの折込広告や、雑誌のデザイン関連の記事さえも身体が受け付けなくなるのである。

一方で、意図されずにそうなってしまった(かのような)モノのあり方を街中で見つけた時には、小躍りして喜んで思わずカメラを向けてみたりもする。要は、意図されたものとされないもの、そのバランスの中で日々生きているのだなとつくづく思う。

休暇と称し、都市部から自然の多いところへ行く。海を眺めたり、田んぼのあぜ道を歩いたり、森の木々の間に佇んだり。総体的に自然といわれるものは、人の意図が入っていないからこそ、癒されたり、リフレッシュすることが出来るのだろうと思う。もしくは、意図されないものに惹き付けられるのは、都市部に生きる人間の性なのか。厳密には、田んぼや山林には人の手が入っているから少なからず意図は入っているのだろうけれど、自然の、人の意図では管理しきれない部分が、四季を通してその意図をどんどん薄めていく。だから意図されてあっても癒されたりするのだろう。

もちろん今では地方の幹線道路沿いは、意図されたもの、しかも決して見栄えの良いとはいえないもので埋め尽くされているけれど、逆にキッチリカッチリとデザイナーにデザインされていないユルユルな感じが、まだ気持ちにゆとりを生むのかなと思ってみたりもする。

これは、設計という「意図する」行為を日々行っている中での、自問自答に過ぎないけれど。
「意図されないもののように意図することが果たして出来るのだろうか。」
そんな疑問から発して、この春、作品を創ってみたいと思っている。

意図されない感じを、いとかんで。(←それが言いたかっただけか!)

(画像:海は意図されないものの最後の領域だろうか?)
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「志水児王展」  伊藤寛明

Posted on 7月 25, 2007

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そぉーっとドアを開けてみると、その部屋は真っ暗で、正面の壁に何やらレーザー光線の赤と緑色のアヤシイ光が壁を這っていた。5m四方程度の平面に天井高さが3.5mくらいある真っ白なギャラリーは、茅場町にあるRECTO VERSO GALLARY。真っ白なギャラリーを真っ暗にして、『志水児王展/INNERSCOPE』が8/4まで開催されている。

暗い中よく見ると前述の光は、床に置かれた、水を張ったプリズムのような細長い物体を通して壁に映し出されている。赤いレーザーは緑の地と同調しながら不思議な動きをして行ったり来たり、その動きがたまらない。赤いレーザー光線は建築現場等でも水平と垂直を出すもの、直行するものとして使われているけれど、そんなイメージがぐにゃぐにゃと曲がっていく。

一見CGのような動きにも見えるけれど、水の揺らぎを通した光だからか、2度と同じカタチにはならない所が見飽きないのだろう。海辺の波打ち際で寄せては返す波を眺めていて飽きないという感覚に似ている。

水の波紋だけでこんなにも複雑な動きになるのだろうか、変換/増幅されているのだろうか、といろんな疑問が頭をよぎっていくけれど、誰もいない涼しい部屋で(ちょうど昼時だったからね)飽きずにずーっと見ていて、気がついたら1時間近く経ってしまっていた。

増幅された波、その後さらに消散していく緑の帯。制御された水面の動きが繰り返す「静寂」と波の巻き起こす「混沌」は、そのまま「現代社会」を投影している、などというのは飛躍しすぎか?(たぶん・笑)
また、レーザー光線の波が心電図の波形を連想させる(かなりな不整脈だけどね)とすると、日々「静」「動」を繰り返す「心の状態」の暗喩であるというのは、ちょっと考えすぎか?(たぶん・笑)

いやいや、そんなことはどうでもよく、単純に<オレ、こういうの大好き!>
なんか元気が出てきた。

茅場町レクト・ヴァーソ・ギャラリー
http://www.recto.co.jp/verso/

志水児王氏のサイト
http://www5.famille.ne.jp/~jshimizu/

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建築の美しさ 伊藤寛明

Posted on 4月 8, 2007

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学校を出て設計事務所で働き始めた頃、建築家協会という団体が主催したとある勉強会に参加した。その後に懇親会があり、早大教授の穂積先生がニコニコしながら会場をプラプラ歩いていたので思いきって話しかけてみた。
「先生は建築の美しさ、もしくは美しい建築ってどういうものだと思いますか?」
今から思えばとても無謀な質問だったと思うけれど、それは若気の至り。先生は人なつこい表情一つ変えず、近くの書棚にあったル・コルビュジエの写真集を手に取ってパラパラとめくりながら言った。
「その質問に答えるのはとても難しくてね。このコルビュジエという近代建築の父と呼ばれる人でさえ、常に美しい建築を創ろうとして創ってきたけれど、たぶん最後まで答えは出なかったと思います。私も今ここで答えが出せるとは思えないので、今晩寝ながら考えましょう(笑)。」
以来、建築の美なる言葉を聞くたびに、先生の名(迷)回答を思い出す。

世界中くまなく建築を見てきたわけではないけれど、心を動かされる程美しい建築物にはたまに出会う。ガウディのサクラダファミリア教会(バルセロナ)やブルネレスキのドゥオモ(フィレンツェ)等の有名な建築だけでなく、メキシコ・ティオテワカンのピラミッドやベトナム・フエ旧王朝の宮殿等の遺跡であったり、普通の街中にひっそりとたたずむ名もなき町屋や商家だったりもする。
どちらかというと近代以前の、古く人の手の跡が染み込んで使い込まれた空間や、その時代にあり得たこと自体、想像を絶する技術や精度、完成度に触れた時に、その総体として「美しい」と思うことの方が多い。
そう考えていくと「かたち」や「プロポーション」の美しさというのも、美しさの中の一つの要素でしかないようにも思えてくる。
ギリシアからローマ・ルネサンスを経て近代に至るまでの中には、黄金比やモジュロールといった「美の基準」がないこともないけれど、果たしてそれが絶対的な美、つまり誰が見ても美しいと思う基準かといえばそれはそれで疑わしい。美しいと言われているモノに接してきたかどうかの経験量の差こそあれ、人それぞれの「美の基準」があり、それは相対的なものだとも思う。

なーんてことをつらつらと思い巡らせながら、ふと思った。もし仮に絶対的な美が建築にあるとするならば、それは「人の美しさ」なのではないだろうか。
美しい建築とは一つの歴史的事件であることは確かだ。その建築に関わる人の美しさとは、言いかえれば人の純度の高さみたいなもの。純度の高い発注者、それに呼応出来るほどの純度を持った設計者、そしてその時代の技術力や人を集めて動かすことの出来る高純度な施工者、三者の純度の高さが美しい建築を生むのではないだろうか。

そう考えていくと、中世の教会や社寺建築が美しいというのも、関係者の純度の高さがなせる技だと納得出来る気がするし、時の権力者や王様の一途な思いによって建築されるものもしかり。建築に関わる人たちの純度の高さがぶつかり合う時に、美しい建築という事件が起こる。近代以降は人の純度が低くなったのか、いろんな不純物が混ざって乱立する建築の中には、あまり美しいものが見いだせないことにも合点がいく。

建築のことを「凍れる音楽」と言ったのは誰だったか。純度の高いピュアな音楽のような建築を創るには、まずは雑物の混ざった自分自身をキレイにしてから設計を始めろということか、と少し襟を正してみたりなんかして。

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