【絶勧!】エミリー・ウングワレー展
Posted on 6月 16, 2008
【エミリーの絵は、トリップする。何がいいか、じゃなくて、トブんだ。】
*
絶対のお勧め、【絶勧!】というシリーズを始めます。
薬師寺展の日光菩薩、月光菩薩も【絶勧!】だったのですが、見に行ったのが終了間際だったので書きませんでした。
今回のエミリー・ウングワレーは、7月28日までで、余裕があります。ぜひ見てください。
このシリーズは、絶対! のものしか取り上げないので、次はいつかわかりません。
*
[エミリー・ウングワレーの肖像と評価]
エミリーはアボリジニで、78歳から絵を描き始め、亡くなるまでの8年間に3000枚以上の絵を描いたそうです。
西洋美術との接点はなく、美術教育ももちろん受けていません。そういう意味では広義のアウトサイダーアートになるのでしょう。しかし、今回の展示にはアウトサイダーという言葉はなく、抽象絵画として高い評価がある、という点が強調されています。
しかし、それは外部からの見方で、彼女は美術のアウトサイダーでも、抽象画家でもなくて、一人のアポリジニとして絵を描きました。彼女は部族の長老として、ボディペインティングや砂絵、さまざまな儀式などを取り仕切っていたようです(図録の文章には美術の枠組みの中での評価ではなく、このへんのことを具体的に紹介してほしかったです)。
彼女の絵を見て感じるのは、その伝統の深さ、確かさです。
天才画家と惹句にありますが、それは美しい花を切り花にしたような言い方で、その才能は個のものであるより、オーストラリアの大地や、アポリジニの霊的な伝統に深く根付いていて、切り離すことはできないと感じられます。
*
[一つのトリップのシミュレーション]
あなたが会場に入ると、まず、彼女の絵は地面におかれて四方から描かれるため、天地左右がなく展示の際の天地はキュレーターに任されている、という説明に出会うでしょう。
自分はものごとにとらわれないほうだと思っていたあなたですが、すでに従来の感覚の枠組みが通用しない世界に入ったと知ります。
最初の部屋の22点の連作を見て、すでに何か未知のものと出会うような予感が溢れてきます。心がなにか地熱のようなものに出会って暖かくなります。
次の部屋のバテックには、色遣いと模様で軽いオプチカルな効果があり、じっと見ているとチカチカしてきます。しかし、そこでなおも見続けることが、トリップへの入り口になるとあなたは感じるでしょう。
じっさいに見続けたあなたは、最初、絵のある部分の細部がリアリティを持って浮かび上がってくると感じるでしょう。さらにじっと見続けていると、今度は最初とは別の部分が浮かび上がってきます。そして、さらに別の部分が…。それを繰り返すうちに、絵が立体的な奥行きをもっているように感じ始めます。さらにはそれが微妙に動いているように見えて、まるで生命を持っているかのように感じられてくるでしょう。
その生命感に集中すると、それがエミリーの内的世界のイメージだと気づきます。しかし、それはエゴではない。もっと茫洋として深いものとつながっている。
その証拠にそれは全く多様なのです。
見る作品見る作品が、違う世界をもっている。
総体として広い茫洋とした宇宙があり、それが作品という接点において多様な面を見せてくれるのです。
そして、あなたはその一つ一つの世界の前に立ち止まり、いつまでも立ち去ることができないでしょう。
**
[異種格闘技の原理]
以上のシミュレーションは、僕が体験したことですが、素直に絵を見る人には誰にでも同じことが起きるのではないでしょうか。
一種の軽い目眩や陶酔感、これを体験するのが正解です。
エミリーの絵を貫くのは、このトリップ感覚です。
草間弥生の作品にもチカチカする感覚がありますが、あれは病的なものと結びついています。病気そのものというより、病気の治癒のプロセスがポップな作品として噴出していると感じるのです。
それを否定する気はありませんが、エミリーはもっと健康的で太い回路をもっています。そして、ポップではなく(つまり表層で跳ね返さずに)、見る者を深く受けて入れてくれる土壌があります。
最後の映像で、エミリーの制作風景をみると、無造作とも言えるタッチで、ためらいなく線を引き続けていきます。
逡巡や停滞はありません。
これは作品を見るうちに僕の中に生まれた感覚を裏付けてくれるものでした。
美術家は、作品を作り出しますが、エミリーは、まず自分の中に或る内的状態を作り出すのです。儀式を司るということは、そういうことです。
日本では葬式や結婚式の儀式がありますが、あれはかなり形骸化したもので、本来宗教儀式とは、ある心理状態、魂の状態を作り出すためのシンボルの操作です。
エミリーが絵を描くのは、神主さんが祝詞をあげ、お祓いをするのと変わりません。
何の力みもなく、形式に則って行う「行」のようなものです。
美術では、作品という形式に「籠められるもの」がすべてですが、エミリーの場合は、この行にすべてがあり、作品は結果に過ぎません。
しかし、その作品は見る人をトリップさせる。
それは、エミリーの内的状態が一つの集光レンズとなって、作品という一つの焦点に集まるのです。その焦点から見る人の内面というスクリーンにエミリーの内面にあるものが再び投影されます。
だから、われわれは彼女のヴィジョンを見るのです。
あらゆる芸術で上記のようなことは起きるのですが、エミリーの作品はその最も純粋無垢な結晶です。なぜなら、作品意識というものがないからです。
画家は制作中、ときどき筆ををとめて、絵の全体を眺め渡します。そうして自己評価し、ときには、方針に修正を加えたりするのが作品意識のわかりやすい形です。
このようなプロセスで、作品として整いますが、焦点としてはズレる、という現象が起きるのです。
エミリーはたぶんそういうことをしなかったでしょう。
何も考えず描き始めて、描き終わる。疲れたら寝る。ただ、それだけです。
その素朴さ、見ようによっては野蛮さの中に、儀式や祭儀を司る人の自然や内面に関する知恵や伝統、豊かさが秘められているのです。
これは美術にとっては異種格闘技戦なのです。
美術がいかにこれを評価し、抽象画という枠の中に納めようとしても、エミリーのほうはそれを必要としていない、ということが歴然としてしまいます。
音楽に陶酔する人は多いですが、美術はなかなか陶酔までいかない。
「鑑賞」になってしまいます。
それがなぜなのか、エミリーに会えばわかります。
(写真は関係ありません。作品画像はリンクを見てください。)
国立新美術館2008.7.28まで。
http://www.emily2008.jp/

