裸眼で見ること ■「青山二郎の眼」展
Posted on 7月 26, 2007
青山二郎の展覧会、これはもう「わくわく」ものである。聞きたくもない告白をすれば、たいていの展覧会は、僕にとっては、せいぜい「わくわ」である。「わく」くらいのときもあるし、「わ」だけのときもある。
それでも、よい展覧会に行けば、いろいろなことを感じたり、考えたりして楽しめる。
しかし、青山二郎は「わくわく」である。格別である。
小林秀雄が好きだからね。その友人とも師とも呼ばれる人が面白くないわけがないのである。
世間の人は、青山二郎の周辺に、小林秀雄だ、白洲正子だ、大岡昇平だ、柳宗悦だ、中原中也だ、河上徹太郎だ、宇野千代だ、梅原龍三郎だ、浜田庄司だ、北大路魯山人だ、加藤唐九郎だ、中川一政だ、と綺羅星のように名前を並べられると、それだけで恐れ入るのである。
しかし、そういうことで恐れ入るのはつまらないことだ。
恐れ入れば、知識の文脈の色眼鏡でものを見るようになる。そして、その色眼鏡が正しいかどうか、ときどき文献で確かめては、胸を撫で下ろすようになる。
小林秀雄も青山二郎も、煎じ詰めれば、ただ目の前にあるものをあるように見ろ、ということを言っている。
しかし、人々はそういうシンプルなことを言われて、またむつかしい奥行きがあることを言われたように恐れ入るのである。
青山二郎の「眼」という展覧会である。
青山二郎は、目利きである。
しかし、それはよい「裸眼」を磨いてもっていたということであって、高級で高性能の色眼鏡を持っていたということではないのだ。
しかし、そういうことを人は本当はわかりたくない。
裸眼で見るということは、既存の価値観で自分を支えられなくなる、ということで、ある人々にとっては恐ろしいことなのである。
だから祭り上げるのである。
「青山二郎の眼」展の本当の楽しみ方をお勧めしよう。
このリンクの写真の中に入ることだ。
ここでの写真は、とても小さいけれども、会場の中盤に等身大に近く引き伸ばしてある。すごくいい写真で、とくに小林秀雄の表情がたまんねえ。心中の舌で焼きものを舐め回しているようなところと、言葉の人としての対象との距離感が絶妙にミックスされている。青山はもっとぼやっとした大人の風があるが、その場に酔っているようで、これも楽しそうだ。
誰でも「ああこの場に居合わせていっしょに遊びたかったなあ」と思うはずである。そこでびびってはいけない。
それは仙境の絵を見て、天女と遊ぶことを夢見るようなものだ。
心の中の夢であって、恐れ入るようなことではない。
あんまりケチくさいテリトリー意識はやめたらいいと思うのだ。青山二郎も、生け花について発言して、勅使河原蒼風に「あなたは語る資格なしだ」と言われている。能についても一言言って、梅若実というのを怒らしたと自分で書いている。
見た通りのものを語って、「その通りに見えた」ということは他人に否定できることではない。ただ人は、知識と蓄積という色眼鏡に自信を持たないとき、ときどき「その通りに見えた」、ということにすら自信を失ってしまうのだ。
「王様は裸だ」とはっきり言えたのは無垢な少年一人きりであった。
美しさを感受することは独特の感覚のものであるのに、そこにブランドの裏打ちを求めるという傾向はいまに始まったことではないだろう。しかし、青山二郎を同じ方法論で消費することは、他の人物以上に、ことさらつまらないことのように思われる。
美や芸術は多義的なものである。
美術家は、作品を通じて自分が美を創造している、と思っている。
しかし、青山二郎の世界では、美は「見出されるもの」、として語られている。作品を作るものが美を作り出すのか、見るものが見出すのか。
両者の共同作業だ、などとすぐに穏健めいた結論に落ち着かせることは罠に落ちることだ。美をそのような共通の了解事項に普遍化することはできない。
なかなか一筋縄に行かないのが、審美「眼」というものだ。
審美眼のことを考えていくと、たしかにそれは良いモノをたくさん見ることによって磨かれていくはずだ。しかし、磨かれた結果がすぐに普遍的な共通性を持つわけではない。
青山二郎は、ピカソにもゴッホにも自分は「おんち」である、つまり、好きではない、あるいはよさがわからない、ということを言っている。
美を見る眼が高ければ、誰でも同じ方向性とヒエラルキーで世界を見るわけではないのだ。
つまり、美というのは、客観性として語ろうとすれば、かなりわけのわからないものである。だからといって、主観性しかない、と考えればあきらかに道を誤る。
そういう怪しさこそ、青山と小林を捉えていて、眼の前にある美しい陶器、骨董に瞬時確からしさを確認し、眼を鍛えるゲームをしていたように思われる。
二人とも、骨董を愛する者ではあったが、コレクターではなかった。喉から手が出るほどほしい物件(たとえば、「自動電話の箱の中で立って暮らしてもいいと思うほど、欲しい陶器」というのがあり、これは人に買わせた。この陶器も今回展示されている)を手に入れても、しばらく所有すると、まもなく売り飛ばしてしまうのである。
そして、売り飛ばした金で飲みに行ったというような乱暴な挿話が、写真の『鎌倉文士骨董奇譚』という本にはたくさん出ている。
いい(ということは悪い)酒飲みである。タイムマシンで飛んで、彼らと一度、飲んでみたい。(いじめられるか)。
そんなことを考えながら見ると、時を超えた美しさが、しんと沁みてくる展覧会である。
(書きたいことがたくさんあるので、この項、続くかもしれない…)

