「アート」って、儲からないの?
Posted on 6月 14, 2007
京都の繁華街の一角で、イベントを終えた男5人が、
”ご飯を食べに…”と居酒屋に上がりこんだ。
”ご飯を食べに…”が”酒を飲みに…”と同義語であるのは、
もうご存知の通り…。
メンバーは、イラストレーター、ギタリスト、シンセシスト、
アパレルデザイナー、そして建築設計者。
このメンバーの酒席で上がる話題も、想像がつくというもの。
・女性のはなし
・食べ物のはなし
・酒の上での失敗のはなし
で、珍しくこんな話題が挙がったから、原稿のネタになる。
・アーチストの大半はなぜ貧乏なのか?
・アーチストとして成功するには、不幸な人生を送らないと
ダメなのか?
イラストレーターが呟く。
「オレの廻りって、貧乏ばっかりやねん…。
もう、貧乏は厭!」
ギタリストが追いかける。
「ぼくも昔、極限に近いとこまで行ったことがある…」
「今日、持ってきた組立てキットも、タグのイラスト描きから、
封入物の仕分け、袋詰めまで、ぜ〜んぶ自分でやったんやで。
で、なんぼの儲けと思う?」
「完全な”マニュファクチャー”やなぁ…」
「せめて、袋詰めるくらいは、優しい女にやって欲しいなぁ…」
と、話がやっぱり色っぽくなる。
バブル経済の頃、「メセナ」という言葉が流行した。
百科事典サイト「ウィキペディア」で調べてみると、
”企業メセナとは、
企業が資金を提供して文化・芸術活動を支援することである。
代表的なものに財団などを通じた資金的バックアップや
企業が主催するコンサートやオペラの公演、
スポーツなど各種イベントの開催などがある。
「メセナ」はフランス語のmécénat(意味は「文化の擁護」)
に由来するというが、これはローマ帝政時代、
初代皇帝アウグストゥスの政治的助言者であったガイウス・
マエケナス(Gaius Maecenas)の名に由来するものである。
彼は経済的に恵まれないウェルギリウスやホラティウスといった
若い詩人たちの後援者としても知られ、文化の擁護や育成に尽力
した。”
会社の経営に行き詰ると、真っ先に削られるのは、先刻ご承知。
決して「文化的背景」があるわけではない。
で、「メセナ」の対象も法人になりがちで、在野で頑張る個人アーチ
ストには、よほど個性が確立した人物でないと、補助は出ない。
そのアーチストも、社会に牙をむく人ではダメである。
だから、私の身の回りでも、企業のサポートを受けられている人は、
10人に満たない。
知人に多くのアーチストが居るが、彼らの悩みには傾向がある。
・作品を作っているが、発表する場が少ない。
ギャラリーで個展を開催するのには、資本とオーナーの許諾が
必要だ。
今日も、彼らは自らの作品集を持ち歩き、ギャラリーよりは
敷居の低いアート・カフェを渡り歩く。
・自分がアートに関わっている際の方向性についての不安。
「○○の作品に似ている…」
彼らにとって、この言葉は辛い。
いくら上手くても、オリジナリティが無ければ認められない。
仮に誰の真似をしたわけでもないのに、情報化社会は、
類型化を好む。
・アーチストとして、生きていけるのかどうか。
純粋にアートだけでメシを食って行きたい。
ただし、経済的成功の保証はない。
20歳台の若い間は突っ走れる。
けれど30歳の年齢の声が聞こえると、迷い始める。
40歳になると、アートと副業の比率が逆転し始める。
多くのアーチストは副業を抱えている。
彼らの自己紹介にも
「○○しながら絵を描いています」
「会社勤めをしながらの、サラリーマン・カメラマンです」
という言い方が多い。
こんな発言も聞いたこともある。
「アート作品を作ること自体が贅沢。
私たちは、そんな余裕もない…」
私には、表現する力が無い。
絵も描けないし、歌も上手いわけではなく、楽器も弾けない。
だから、その罪滅ぼしのために、案内を受けたイベントには出来るだけ
参上することにしている。
単に、会場に行き眺めただけなのに、招待者側にとっては嬉しいらしい。
展覧会のルポを書くと、感謝の言葉と共に、次の週末のイベント案内が
Mailでどっと送られてくる。
時期が重なり行けない方に謝りの連絡を取りながら、スケジュールを
調整してる私は、幸せ者である。
気をつけなければ通り過ぎてしまうような小さなギャラリーや、
取壊し間近なビルの地下で、私が現れると顔を輝かせてくれるアーチスト
たちに、貧困や不幸の影は、とりあえず現れない。
いや、むしろ精神的貧困や不幸の足音が忍び寄って来てるのを、私は
気が付いていないのかも知れない。
今、流行りの「鈍感力」とか言い訳にして…。
Filed Under 【Esquisse ou Croquis …?】

