芸術日記■会田誠・山口晃展『アートで候』と『金と芸術』なぜアーティストは貧乏なのか? シンポジウム 村松恒平
Posted on 6月 7, 2007
昨日はタイトルの展覧会とシンポジウムをはしごして、その後飲んだ。
これは、僕の提唱する「アート&飲み」の一環である。芸術は本来、酩酊的、陶酔的なものである。
芸術を摂取したときには脳内麻薬をどはどばと出さなければいけない。そういうときに出た脳内麻薬が、ぱさぱさと乾いたこの社会を毒する…、いやインスパイアしていくのである。
ミュージシャンがドラッグをやるのは、そういうわけである。本来、アートはしらふではいけない。しかし、非合法なことはたいへんなので、せめて芸術の後で、合法的にアルコールを摂取するわけである。
展覧会を見た後で、小指をピンと立てて紅茶を飲み、「マルセル・デュシャンは…」とか、「去年バーゼルに訪れたときには」とか、そういう話をしてはいけないのである。
さて、日記というスタイルで書くのは、三つ訳がある。
一つは、投稿が少ないのである。しかし、日記なら誰でも書ける。安易に書きやすいだろう、ということだ。
次に二つ見に行ったので、二つの原稿を書くのはめんどいのである。
第三に、雑感的なことしか浮かばないからである。
さて。
『アートで候』展は、面白かった。面白かった、というのは芸術的知的に面白かっただけではなくて、2.3カ所で実際に可笑しくて噴いたのである。
最初は少し構えていたのである。山口晃氏という作家は、印刷物で見ると、テクニックをもてあまして、計算ずくでああいう絵を選択して描いているのかな、という先入観があった。しかし、実際に多くの作品を観ると、「絵を描きたい」という非常に強いモチベーションがあって、それがあの形に結晶しているということがわかる。
大きな絵でも細部まで緻密に表情豊かに描きこんである。小さく描かれた一人一人の人物の表情を確認してほしい。その愛情と才能と技量と時間とエネルギーが一枚の絵のすみずみにまで、まんべんなく行き渡っている。
北斎とか見たときに近い。うまくてあまりつっこみどころがない。じっと細部を見ようとすると、見るだけで膨大な作業になり、ぼうっとしてしまう。
ところが一方で、そういう綿密な仕事ぶりをひっくり返すような、隙だらけの構え、というのがあって、あぁ、現代の作家だなあ、と思うのであった。そのバンクっぷりも潔い。
とくに最近、茶道のことをよく考えるので、「茶室」はツボに入った。これはすばらしい。
通りがかったおじさんが「ハト小屋?」と聞いてきた。
パンフレットでは、本人が「『きれいさび』な気分で作った」と言っている(笑)。きれいさびかどうか、みなさんの判断にお任せしたい。
会田誠氏のほうが、ぶっちゃけぶりは先輩なのであろう。というより、とっちらかっていると言ってもいい。
『滝の絵』という大作があって、これは、数えてみたら40人強のスクール水着の美少女が無邪気に滝の流れの中で水と戯れている。僕はロリ趣味はあまりないけれども、1人1人が個性のある表情の美少女揃いで、しかもポーズも全員違う。
1人ずつ描いても売れると思うが、それを40人も描いてしまうところが、贅沢である。しかも、美少女群を堪能したあと、滝と渓流に目をやると、これがまた見事な描写なのである。
この贅沢さに僕は伊勢海老カレーを思い出した(まだ食べたことはないが)。
展示には、その近くに、日本のゼロ戦がニューヨークを攻撃する絵や、「題知らず」という原爆ドームを描いた絵がある、という具合だ。
そこに過剰な意味づけをすれば、作者の術中にはまる。
いや、意味づけすることもできずにそこに立っているということもまた作者の術中であろう。
中井英夫という作家に『虚無への供物』という推理小説があるが(これは分厚い本で、4章に分かれているが、それぞれの章に事件の別の解決がある、という奇怪な大作なのだ)、芸術が『虚無への供物』だとすると、この二人の作家は、もったいないほど盛りだくさんの供物を捧げることによって、その虚無を強調する、というスタイルなのである。
しかも、その過剰な努力の量で武装することなく、超脱力系の作品と併置してくることで、その蕩尽性は、見る者を不思議な感覚に宙吊りにする(評論家みたいな言い方!)
主催者の挨拶文には、要するに「村上隆の次に金になるのは、この二人だ。注目せよ」、という意味のことが書いてある。パンフレットの最後には、二人の作品をたぶん、ただならぬお金を使って買い集めている精神科医のコレクターが文を寄せている。
この展覧会では、この人たちもじつは批評されちゃっている、という構造なのにまるで気づいていない様子なのが面白い。
とにかく、切れ味のいい悪戯っ気に満ちて、でも、その根底に真剣さも痛切さもある面白い展覧会であった。
この二人が現代日本を代表する作家、ということで、僕も異議はない。
**
展覧会のことを書いたら、シンポジウムはどうでもよくなってしまった。
テーマは関心があるが、とにかく、三時間は長い。この程度の内容なら、一時間半くらいで済ませてほしい。
芸術の直線と金の直線は、数学でいうと、「ねじれの位置」にある(中学の数学でなぜかこういう不思議な言葉で習ったのだ)。接点があるのがむしろ例外なのである。
芸術は精神において自律的、自立的であることに本質がある。
しかし、経済というレイヤーでみれば、自立なんかするわけないのである。それを混同しているような発言があった。
あげられる事例には、いくつか面白いものがあったが、もう少し本質的な議論をしなければ何も変わらない。
しかし、ここで批判してもあまり意味がないだろう。
仕方がないので、パネリストの似顔絵を載せることにする(退屈な授業中のようにたくさん絵を描いてしまった)。
上記の展覧会とシンポジウムで感じたことは、『芸術はお金を超越する』という単純な結論である。
それは、イデアにすぎない。
しかし、そういうイデアと、アーティストの現実論を混同して語るのはよろしくない。
『アートで候』 行くべし!
http://www.ueno-mori.org/special/aida_yamaguchi/
Filed Under 芸術日記

