枯山水『山河』 村松恒平
Posted on 5月 20, 2007
日本人には、「見立て」という遊びがある。遊び、といって軽すぎれば美学とでもいえばいいのだろうけれど、僕にとってはそれは重くもなければ軽くもない「遊び」なのだった。
たとえば、盆栽。
盆栽を、鉢に入ったミニな樹木としてではではなく、数百年、千年の風雪に耐えた老木の姿として見るのが見立てである。
これは、象徴という作用をめぐる遊びなのであって、必ずしも精巧なミニチュアである必要はない。たとえば、枯山水の岩を大きな島に見立てる場合、岩が岩として見えることは差し支えない。
演劇においてブレヒトは異化効果ということを提唱した。
異化効果についてネットで検索すると解釈にバラつきがあるように見受けられるが、僕の理解するところでは、以下のようなものである。
観客を演劇の物語の中に没入させない。
感情移入し没入することを同化と呼ぶなら、それを覚ますことが異化である。
そもそも同化がなければ劇は成立しないが、ときどきその同化に水を差すことで、観客に劇を見ている自分というものを意識させるのが異化効果である。
岩が岩に見えてしまう、ということは、異化効果である。
つまり、島に見立てた岩が、次の瞬間に岩に戻ることで、人はそこに付与された物語に同調することから自身に戻る。
見ている自分自身に戻ることになる。
同化と異化。
鑑賞者はこの往復を繰り返すことになる。
瞬時に無限回も岩と島とを往還することで、人は両者を同時に見る。あるいは、その両者の中間を見る、という不思議な境域に立つことになる。
これは自他の間の往復運動であって、すでに「悟り」の模型なのである。
美術の世界には、このような見立てがたくさんある。
ある美術館で見た棟方志功の風景画作品にあった樹木は印象深かった。墨で三本の横棒を書き、これを縦棒が貫く。「木」という文字以上に単純素朴である。猛烈な速度で書かれたとわかる数十本の木々。あまりに簡素で乱暴とさえいえそうな表現が、書かれたときの勢いを感じさせるが、またこれが見方によっては見事に樹木なのである。
あるいは、太い筆で何の迷いもなく引かれたピカソの描線。それが描かれたものの実体をわしづかみのように捉えていると同時に、ピカソがそれを描いた瞬間の気合いの凍結でもある。
鑑賞者は自分が絵を見ているということを決して忘れることはできないが、同時に描かれた何かを見ているのである。
禅機は、すでにそこにある。そういう単純なところからつながっている。
リアリズム絵画の多くに僕が魅力を感じないのは、こういう両義性に対する感覚に鈍感なものが多いからだ。しかし、ここではその論には深く立ち入らない。
さて、枯山水というものは、宇宙や大海を一つの象徴の小宇宙の中に見出す遊びである。京都のお寺の境内などに、数平米から数十平米の庭をこしらえてある。
しかし、この「枯山水 山河」という僕の小さな作品は、ハガキサイズである。持ち運べる小宇宙。テーブルの上に山河あり。
この作品は、近く売りたいのだが、一体宇宙にいくらの値をつけるべきか。
このような象徴とは、大宇宙を小宇宙に集約するものである。
これは、人の心の機能そのものであり、言葉の機能の一つでもあるということがよく考えてみるとわかるだろう。
大宇宙を小宇宙に集約できるのなら、その象徴の操作を通じて、大宇宙を操作する回路を開くこともできる。
これが象徴主義の本質な考え方である。
A・ランボオの『言葉の錬金術』という言葉が示すような魔術的な回路へとつながっていく力学なのである。
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