『「美術」事始』連載第2回 「高橋由一 展画閣の夢」 平野太一

Posted on 5月 19, 2007

                               「慶応年間の高橋由一」平野太一画

- 手探りの男 -

彩料、カナ箆、交色板、画道、そして展画閣。
どれも聞きなれない単語だが、由一が『高橋由一履歴』他の書き残した文中に登場する言葉だ。彩料は油絵の具の元になる顔料、交色板はパレット、カナ箆はたぶんパレットナイフ。画道や展画閣については、また後にふれたい。

高橋由一は、文政十一年(1828年)二月、江戸の生まれ。前回紹介した西周(にしああまね)は、文政十二年の二月生まれだから、ちょうど一歳違いだ。同世代と考えて良いだろう。
同じ幕末から明治にかけての「美術」のコトハジメに関わった者同士。しかしその生涯はまったく異なる。共通するのは、先駆者ならではの強いエナジーを晩年まで吐き続けていたあたりだろうか。

誤解されがちなことだが、由一は西洋画の「開祖」というわけでは無い。由一が油絵の画法を学ぼうとした時、すでに国内の先人達による蓄積がある程度はあった。由一が最も影響を受けたとされる、すでに故人だった司馬江漢をはじめ、蕃書調所(画局)時代の師でもある川上冬崖や同僚の先輩たち。由一とは直接関係は無いが、葛飾北斎も油絵を研究していたなんて話もあるし、名も無き日本人キリシタン達の残したイコンなども初期の西洋画に分類されている。
では、いったい何が由一をパイオニアたらしめているかと言えば、西洋画の技法を研究し実践する、という所から一歩進んだ、「油画を描いて発表して生きていく」ことを開拓した最初の人物、つまり我々が「洋画家」と呼ぶような存在の元祖、であるということに尽きるだろう。

なにせ油絵を描くための道具もろくに無い時代だから、すべてが手探りだ。油絵の具も自作。筆も職人さんに頼んで特注で作ってもらい、前記のパレットナイフは、西洋包丁の古いのを仕入れてきて削って使ったり、竹や鯨のヒレ(髭?)を削ったものでも代用したりした。
「布地ヲワクバリスル」(キャンバスを貼る)ための道具には、「煎餅ノ焼形ヲ買取リ」独自の加工をして用い、パレットである上記「交色板」には「代用ニ刺身皿ノ古キヲ以テシ」、など身の回りで調達しやすい道具を自らの目と感触で選び、使いやすいように改造して、油画制作に用いたのだ。
後に幕府の海外使節団が出発する際に官費で取り寄せた油絵の道具一式「油絵彩料筆刷油液諸器械等」が長持に入って画局に届いた時は、学生個人に渡る物では無いと解っていても「喜悦限リナク」と一同大喜びしたそうだ。

慶応二年、油画を日本人より習うことに限界を感じた由一は、横浜の居留地に外国人の師を求めて出かけた。その時に頼りにしたのが、由一いわく「親友」である岸田銀次(岸田劉生の実父!)。ちょうど岸田は医師ヘボンの書生をしており、由一はヘボンに油絵を教授してくれそうな人物を紹介してもらおうと考えていた。色々あってなんとか英国人・ワーグマンに学べることとなり、以後、画法だけで無く絵画理論や西洋の美術を取り巻く事情なども教わっていたようだ。
そんな中で生まれた夢、いや由一の以後の人生の目標のひとつが、冒頭で挙げた単語「展画閣」だ。

- 「美術」でなく「画」 -

「展画閣」は具体的に今の言葉で表現するなら、たぶん美術館、もしくは大きめの画廊のような建築物を指しているようだ。油画を常時展示できて、一般庶民も自由に見に行くことができるスペース。由一は明治維新前にすでにその構想を持っていたらしいから驚かされる。
「美術館」と名前が付いた建物は、明治十年の内国勧業博覧会で登場するが(この時、由一も作品を出品していた。前回のトップ画像がその開会式の様子)、今で言うところの特設の博物館のようなもので、由一が理想としていた「展画閣」とはほど遠いものだったようだ。日本における本格的な美術館の誕生は、由一の死後、数十年も待たねばならない。

ここで注意しなければいけないのは、由一が造築を願ったのは「展画閣」であって、「美術館」では無い、ということだ。高橋由一には、これからもたびたびこの『美術事始』の連載に登場していただくことになる、日本の「美術」の始まりに欠かすことが出来ない中心人物の1人なのだが、当の由一自身は「美術」という言葉をそんなに好きでは無かった。そうとしか見えないから面白い。
なんせ『高橋由一履歴』にしても、明治政府に提出した書類にしても、「美術」という単語は、ほとんどまったく使っていない。しいてあげれば、「工部美術学校」などの固有名詞の中で用いているくらいなのだ。
「美術」が一般に定着したのは、明治の半ば以降らしく、由一の人生の終わり近くまで、そんな言葉は使う必要が無かったから、とも言え無くないが、今の目線で見ると、わざと「美術」という単語を避けているようにさえ見えてしまう。

由一は自他共に認める変わり者だったようで、『由一履歴』の中にも「開成所画局ノ憎マレ者」「大邪魔者ニテ困ルト評判」などと自身が組織の中で特異な存在であった事を語っている。良く言えば、強い意志と決意を持った先駆者らしい気質。悪く言えば、かなりの頑固者でヒネクレ者。

「美術」という言葉がほとんど使われない代わりに、たびたび用いられるのが、「画学」や「画道」など「画」が付く言葉だ。特に「画道」は要所要所で力強く用いている。自らの画道を究めるためだけでなく、その隆盛のため(社会に普及させるため)に、多くの人と交流し、また多くの弟子を持ちその技術を伝えた。

- このあたりが先駆者 -

明治六年、由一は画塾を開いた。その名も天絵楼。弟子は70名ほど集まったというから、けっこうな大所帯だったろう。
同年のウイーン万国博覧会やこの前年の湯島聖堂で行われた博覧会(前回の「明治五年のできごと表」を参照ください)に由一は油絵を出品している。博覧会や万博の類には、以後も洋画の第一人者として出品を依頼される立場になっているのだが、そこは「憎マレ者」の由一、たぶん「官」主催の展示だけでは、およそ洋画は普及しない、つまりこれでは自分たちは絵で喰っていけない、と考えたのだろう。
明治九年、前年に天絵社と改称した画塾を会場に、毎月一回、教員と学生の作品を一般に公開するようになる。

制作者自らが発起して、展覧会を企画する。今では当たり前のことだが、一般の人にも見てもらうとなると、当時はかなり珍しいことだったろう。油画が写真と同じように、見せ物的な要素を持っていた時代だったことを差し引いても、現在の美術作家の活動のルーツが由一にある、と感じる実績のひとつだ。
由一が発案して行った事はそれこそ山ほどあるが、私が気になったものをいくつか挙げるとすれば
・競争会の開催 毎月課題を設けて学生達に鉛筆画を描かせ、優等者には賞品を与える。
(今でも美術予備校ではこんなコンペがよくある)
・学生の中で画材、絵の具を製造販売する者を許可し、一店だけだと独占で品揃えも充実しないから、二店にして競争させた。
(製造する者がいないと、画材も思うように買えないから、必然として生まれた発想だろう。由一は絵画技術だけで無く、今で言う画材メーカーすら育てた)
・天絵社の展覧会の開催の告知を、日刊新聞にて掲載する。
(草創期の日刊新聞にも由一は人脈があった。前述の岸田銀次は東京日々新聞の編集部に入る。前回の西周の同僚に)

まさに開拓者として、もうなんでもやった男だった事が解ると思う。
日本の近代美術史の始まりと言うと、すぐに岡倉天心やフェノロサ、または黒田清輝を挙げる人がいるが、もう一度目ヲカッポジッテ、由一が成したことをよく見て欲しい。

高橋由一や岸田銀次、ワーグマンやポンペにはまた登場いただくことになると思うが、今回はこの辺りで。
次回はいよいよ幕末の江戸のトップアイドル!にして由一のモデル、稲本屋小稲を紹介します。

参考文献:明治25年『高橋由一履歴』
昭和51年 「日本の名画2 高橋由一」 中央公論社
平成6年 『日本近代美術と幕末』 匠秀夫著 沖積舎

Filed Under 【美術事始】

★著者: 平野 太一
★自己紹介:平野 太一(ひらの たいち) 1973年生まれ 横浜市出身 彫刻家・美術作家 幼稚園美術教室講師 法政大学文学部日本文学科中退 多摩美術大学彫刻科卒業 幕末から明治中期までの日本の歴史、人物にとても興味があり時間がある時は、いつも調べています。資料や史料が好きで小説はほとんど読みません。 古書や錦絵に埋もれるような生活をしています。 国会図書館や公文書館のデータベースが、今はインターネットから見られるので、大変ありがたいです。
★記事データ:掲載日 2007/5/19 at 12:25:55
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