[いけばな/鋏の音 2] 真っ白な時間 紫苑
Posted on 5月 10, 2007
花器と花材を前にした瞬間、わたしの頭の中は真っ白なキャンバスになる。
失恋した日、両親の諍い、友達との行き違い、仕事上のトラブルなどなど。
それらすべての日常の煩わしさが嘘のように鎮まって、わたしと花との対話がゆっくりと始まるのだった。
例えば、花材からインスピレーションした風景の、わずかばかりの風の動きを指先が察知し、手は魔法にかかったように動き出す。その花材の出生の風景を、情景を切り取って、花器の中に再現するのだ。但し、それは全く同じ風景を写し撮るというのではなく、技法によって遠近や強弱をつけ、極力無駄な枝葉を削っていき作品として完成させていく。
「先生、お願いいたします」
座布団を裏返し座したまま後ずさり、師へその場所を譲った。
師は腕を組んだまま、じっとその作品を見入る。
「今日のお花は、渓谷の情景が手に取るように感じられますね。あなたの作品の全体に流れている間が、とても良いと思いますよ。作品の中からせせらぎが聞こえて来るようね」
などと、こちらの意図が伝わった評価を得た時は、飛び上がるほど嬉しかったものである。
こうしていけ終わった時、わたしは完全燃焼した。
失恋がなにさ、両親の諍いがなにさ、仕事上のトラブルがなにさ。
それらの煩わしいことがすべて昇華し、再び、真っ白で無垢な自分を取り戻せる瞬間なのであった。
少々大袈裟であるけれど、この真っ白な時間さえあれば、「わたしは生きていける」、と勇気が湧いてきたものだった。
それでもこのような境地に達するには、かなり多くの時間を費やしていけばなの基礎を学ばなければならない。何より流派の門戸を叩き、教えを請うているわけだから、当然のことながら避けては通れない道なのだった。
その頃、わたしの身の上には様々な災難が押し寄せて来て、時にはつぶされてしまいそうだったのだけれど、いけばな教室に通うということが、この上なく救いであった。
あそこへ行けば、この切ない思いは満たされる、と自分を奮い立たせ、教室への玉砂利を踏んだものである。
何度も窮地に陥りながら、そういうことを表面には出さなかった。それがわたしの人生の修行なのだと観念もしていた。もちろん、師には一度も伝えたことがなかったし、その窮地を伝えたいとも思わなかった。
ただ、お稽古をつけていただくことが、何よりわたしの慰めであり喜びであったのだから。
悪く言えば、いけばなという世界に逃げていたのかもしれないが、逃げた場所で学ぶことが多かったのも、わたしにとってラッキーなことだった。
誰かに話して救われたり、慰めになったりするのは、青春時代の誰もが経験することであるけれど、わたしはあまり他者へ本心を明かすということをしなかった。それは多分いけばなを通して、自分の中で自浄作用ができていたからだろう。
最近ふと思うことがある。
これだけは誰にも譲れないというものが何か一つあれば、人生の支えとなりうるのだ。
わたしには幸いにもそれがいけばなであり、本当の意味での精神修養の場であった。
今では華道としての活動こそしていないけれど、過去の修行が心の豊かさとなって存在し、何よりそこで学んだすべての事が、現在のわたしの生きる基盤となっている。
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