豚の尻尾から手を放せ! 「澁澤龍彦−幻想美術館」 村松恒平
Posted on 5月 7, 2007
育ちがよく早熟で知性的であるがゆえに、孤独の雰囲気をまとう少年。彼がある蝉が鳴く夏の日に、自分の部屋で秘やかなおもちゃのコレクションを見せてくれた。幻想美術館は、そんな魔法のような時間の中にある。
ミ☆
<龍>がつくから、というわけではない。
埼玉県立近代美術館「澁澤龍彦−幻想美術館」を訪れた。
熱狂的な読者ともいえないが、澁澤龍彦の著作は一時期愛読した。
だから、彼の世界観の輪郭はある程度理解しているつもりがある。
敢えて言葉にすれば、人工物でありながら珍しい貝殻のように硬質で孤立していて奇矯なもののコレクション。著書の図版を通して伝わってくるのは、一般にそういうものだろう。
今回、彼のコレクションやオリジナル作品に触れて、その輪郭自体は大きく揺らぐことはなかった。しかし、監修者巖谷國士氏の近しく触れ合った人でなければ書けない解説もあり、硬質でときには拒絶的ですらあると感じられた澁澤の世界が、親密に息づいて感じられたのは、大きな収穫であった。
(澁澤龍彦を語るとなぜか語彙までが硬くなってしまう!)
思いきり平たくいうと、この展覧会によって、遠かったモノが近づき、よそよそしかったものが親しくなり、死んでいたものが息づき、過去のものが未来に向けた刺激となり、つまりは、書物を隔ててしか知らなかった澁澤ワールドが、僕の中で具体的な生命力を持ち出した。
それは、すぐに想像力や創造力を燃え上がらせるきわめて可燃性の高い燃料であって、たいへんお得な展覧会であったとまず全体の報告をしよう。
巖谷國士氏の解説を読んで改めて感じたこと。
*その1
澁澤はサドの翻訳をすることによって、ある水脈を開いたということである。水脈というか、人脈というか、龍脈というか、隠れた神経系に強力な電流が流れ始めたかのようにそれは機能し始めるのである。
三島由紀夫をはじめとする錚々たる人々がサドという突出したシンボルを掲げたことによってつながっていった。
それは、当時としては、全く異端的な人脈であった(異端という言葉も、全く澁澤的な磁力の圏内の言葉であって、澁澤を語ってその磁力の呪縛を逃れることは僕には難しい)。
*その2
サド裁判を通じて、澁澤は社会化された。『悪徳の栄え・続』が猥褻文書とされたということだが、大岡昇平、大江健三郎、吉本隆明など錚々たる知識人が弁護側の証人として法廷に立った。国家がサドや澁澤を本当に危険視し、影響力を限定しようとしていたなら、裁判にかけるより黙殺したほうがずっとよかっただろう、ということが歴史を透過すると見えてくる。
澁澤は、裁判を「茶化す」という態度であったと言われているから、当初より確信犯であったのだろうが、何か日本刀に最後の焼き入れをするように、この裁判が澁澤龍彦を最終的に完成させたように思える。
国家の幻想性や、法律制度の欺瞞性を目の当たりにしたこの裁判を通じて、ますます澁澤龍彦は澁澤龍彦として完成したのではないか。
同様の例は、赤瀬川原平氏の零円札をめぐる裁判にも見られる。
その3
上記のプロセスを経て、澁澤龍彦は、明確な磁性を持った磁石として、とてつもない人々を引きつけ始める。
瀧口修造、土方巽、堀内誠一、細江英公、池田満寿夫、宇野亞喜良、中西夏之、高梨豊、金子國義、横尾忠則、唐十郎、合田佐和子、四谷シモン……。
誰でも(僕でも)名前を知っている人をあげただけでも、その交友はこういうメンツになる。
澁澤龍彦の磁力圏に入った人間は磁化される。あるいは、磁性が共通な人が引き寄せられてくる。最初から自身が強力な磁石だった人もいるし、澁澤との交流で強く磁化されインスパイアーされた人も多いだろう。ここまでの人物が色濃く交流するのは稀有なことだ。
たしかに強烈な人物の多い時代であったけれども、やはり、僕が磁化と呼ぶ、交流や共鳴、秘かな競争や切磋琢磨の現象があって、それぞれの才能が輝きを増したのであろうと想像する。
そして、その中心はやはり澁澤であって、他の人を中心に磁力を語ろうとすれば、それは力弱いまた領域の限られたものになってしまうだろう。
澁澤は偏愛の人であり、美のコレクターであるけれども、柔軟かつ視野の広い博識の人であった。またサドという巨大な空虚、空虚といって悪ければ暗黒を抱え込んでいるが故に、多くの人を受容する器であった。
このような観察を経て、僕は人の美に対する態度は偏愛が正しい、と学んだ。人が自分の感性の琴線に触れるある種の美を偏愛することは、美の普遍性と矛盾しない。
博愛は愛さないことに似ている。
偏愛することによって、磁性が明確になり、磁性が明確になることによって磁力が強化され、磁力が強化されることによって、磁性が一致するものを引き寄せ、さらにそれを磁化して巨大な磁気圏を作る。
このプロセスが美のプロセスである。
自分が偏愛するものを集めて見せて、「これでいいのだ!」と宣言するのである。
全宇宙を探しても、他に基準はない。
すなわち澁澤龍彦はバカボンパパである。
澁澤龍彦はバカボンパパであるという真理が開示された以上、あらゆる芸術家の卵、芸術家、芸術関係者は、いまこの瞬間に「これでいいのだ!」と叫ばなくてはいけない。自分の作品を自分の主張を「これでいいのだ!」と解き放て。一瞬の逡巡、遅延も許されない。一瞬でも躊躇えば、「これでいいのだ」ではなく、「これでいいのですか?」と間抜けに発語することになってしまう。
しかし、「これでいいのですか?」という問いに答えられるのは神のみだ。
そして、神は死んだ。
世界の「これでいいのですか?」主義芸術家諸君!
「これでいいのですか?」は、市民道徳である。「これでいいのだ!」こそが芸術家の道徳である。
「これでいいのですか?」と問いながら芸術をすることは、豚の尻尾を掴んだまま牛の背に乗って行こうとするようなものだ。
君たちはすでに引き裂かれている。
そのことに気づかなければ亡霊のように生きることになるだろう。
たしかに、澁澤龍彦は、芸術界の煌々たる星々のコレクターである。しかし、それをエスタブリッシュメントなもののコレクションとしてとらえては、本末転倒することになる。澁澤が「これでいいのだ!」と発語したときに星々は輝きだしたので、逆ではない。その瞬間を見失えば、まるで違うものを見ることになる。
千利休もまたバカボンパパであった。
利休がそこらへんから拾ってきて「これでいいのだ!」と叫んだものは、利休名物と呼ばれる茶器となり、現在では数百万、数千万で取引される。磁化された物質が物神化され、精神は遠ざかる。
芸術は勇気と自立心を持つあらゆる人が「これでいいのだ!」と叫ぶ手段である。市民道徳はつねにその断言に危険を嗅ぎ取ってきた。しかし、市民道徳もまた死んだのである。死んだのに自分が死んだことに気づかないものは亡霊である。あらゆる人が芸術家になるべき時代が来たのである。
磁化された物質は目に見えるが、本質は磁力そのものにある。
この磁力を精神と呼ぶのは、本来的な用語法であろう。
この展覧会では、澁澤龍彦の精神に触れることができる。
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埼玉県立近代美術館「澁澤龍彦−幻想美術館」 5/20日まで
http://www.momas.jp/003kikaku/3.01.next.k.htm

