[美術事始 1]「美術」の誕生 平野太一

Posted on 4月 8, 2007

『内国勧業博覧会 開場御式の図』(揚州周延画 明治十年)

- 「美術」の生まれたあたり -

よく噛まないと駄目でしょっ!なんて食事中に注意される子供のような時間だったのかもしれない。
「美術」という言葉が生まれたのは明治五年くらい。それは長かった江戸の世が、本当に終ってしまったことを人々がようやく実感し始めた頃だ。

明治元年、二年、三年とまだ江戸は続いていた。政権は移り、都市を支配していた幕府と幕臣たちはちりぢりになって「東京」なんて名前が付いたけれど、そこに住む町民たちの生活はさほど変化してはいない。
まだみんな髷を結って着物を着て、下駄と草鞋を履いて蕎麦をすすり、花魁と歌舞伎役者は相変わらずアイドルで、300年近く続いた太平の時間の名残の中で暮らしていた。しかしその裏では、新政府の役人たちはおよそ捌ききれるはずもない問題を片っ端から、そして荒っぽく処理している。
明らかな人材不足ゆえに、罪人であったはずの戊辰戦争時の敵(幕府側。賊軍などと呼ばれる)まで獄から引っ張り出して登用している有様だった。特に西洋の事情に詳しい人間は貴重であったから、榎本武揚ら留学経験者にはその知識と語学能力を活かす場はいくらでもあった。
殖産興業、脱亜入欧、文明開化、後にそんなスローガンの付く時代。欧米の文化、風習、言葉がろくに咀嚼もされないままに取り入れられて行く。なにもかも“はじめてづくし”のフルコースで、ゆっくり噛むこともできずに慌てて飲み込むだけ、傍目にはガッついているようにしか見えない慌ただしい日本。
そんな中、英語の「fine arts」に「美術」という訳語を与えた人物がいた。

- その男、巨眼で天パ -

西周(にしあまね)。歴史の教科書には載っていないかもしれないが、幕末や明治を好きで調べている輩にとっては、いたるところに出没する、無視しようとしてもいつの間にか視界に入ってくる、そんな印象を持つ人物。
上記の榎本武揚らとオランダに留学していた30代の頃から晩年まで、わりと多くの肖像写真が残っている。その容貌から個人的に感じたことを挙げれば、まず目がデカイ。はっきりとした二重で、顔の真ん中にドカンとある。瞳の力も強く、写真栄えするタイプだろう。そしてかなりのクセっ毛。今で言う天然パーマ!。留学中に撮影したまだ髷を落としたばかりの若い頃のなんて、もう顔の左右両端(耳の上)に毛糸玉が乗っているように見えるほど。
髪は年齢とともに減っていったが、目がデカイのは晩年まで変わらなかった。

新村出編『広辞苑』によれば、「啓蒙思想家。石見津和野の人。〜略〜
フィロソフィアの訳語〔哲学〕は彼による。〔1829-1897〕」と、「哲学」という言葉を作った人物として紹介されている。
そして、ここではおよそ書ききれないほど彼の経歴は複雑だ。
ペリー来航の嘉永六年、西は津和野藩士として江戸での任に赴き、黒船騒動の中、洋学熱にとりつかれた。9年後の文久二年には念願だった幕府派遣の留学団のメンバーに選ばれ、渡欧。(留学中の西らの動向に関しては、別の機会に参照したいと思う)慶応元年末に帰国した後、正式に幕臣となり、京都で洋学塾をやったり、将軍・徳川慶喜のフランス語のコーチをしたり、政治顧問をしたり、日本最初の憲法草案「議題草案」を起草したりと多忙な生活を時代の変わり目の中心地のすぐ傍らで送っている。
慶応四年の戊辰戦争が始まった時には、すでに数えで40歳になっていた。

- 百学連環、芸術、美術 -

幕府の瓦解後、西は他の幕臣たちに招かれ、沼津で兵学校の頭取となったが、明治三年には、新政府の命で東京に呼び戻されている。勝海舟の推薦から、山形有朋にスカウトされ、兵部省の翻訳局事務官というポストを与えられた。
そして政府の仕事とは別に私塾「育英舎」を開く。ここで多くの訳語が生み出されていくのだ。

「百学連環」。聞きなれない言葉だが、現在では「百科事典」と訳される「Encyclopedia」に関する講義の名称として、西が用いていた訳語だ。
その語源をも理解して漢字をあてている。「無数の学問が環のように連らなる」。
西周は、西洋の学問体系が東洋のそれとは全く異なることをいち早く見抜き、思索していた。語学や史学、心理学、哲学、そして芸術を同時に学ぶことがより異文化を知る近道になることも知っていたのかもしれない。
西の親戚にあたる森鴎外の著した『西周伝』には、明治四年の段階で、その授業の中に「博物学」や「審美学」の科目もすでにあったということが記されている。
「美術」の訳語を初めて公にしたとされる『美妙学説』の成立年は、まだはっきりとは解っていないが、「liberal arts」に「芸術」の訳をあてた最初の記録が、この「百学連環」の講義だった。

- 噛み砕く男たち -

西は明治六年、森有礼、留学仲間の津田真道、そして近代日本語訳のもう1人の雄・福沢諭吉ら共に、明六社を設立し、以降も多くの訳語を残している。

異国語という原稿用紙のマスに収まるほど小さな黒船、しかし無限で無数の相手に対して、日本人すべて(やがて漢字文化圏すべてに至る)を代表して真っ先に毒見し、咀嚼し、歯の無い幼児でも食べられるようにしたヤツら。その1人が西周だった。

およそ135年前の知識人たちのこんな試行錯誤が、なぜだか身近に見える時がある。
前世紀末(1990年代後半)のコンピューター用語や現代美術の日本語訳の失敗を目の当たりにしたからではないか、などとも思う。
マルチメディア、インスタレーションといった我々がカタカナで用いることが多い言葉も、西や福沢なら、もっと上手く、漢字で使いたくなるような訳し方をしてくれるのかもしれない。

今回、「美術」という言葉そのものがどんな中で生まれてきたのか、その名付け親について、を述べてみたが、以降は当時の日本人にとって、いったい「美術」とはなんだったのか?、絵画や彫刻の制作者たち、それを報じた記者たち、創作の対象物であるモデル、様々な角度で取り巻く人々に関して探っていきたいと思う。
彼らもまた美術を“噛み砕いた”ヤツら、なのだ。
明治五年を中心とした前後の十年、そこに美術のコトハジメがある!(と思う)。

参考資料:『西周伝』 森鴎外著(明治31年発行)
『幕臣列伝』 綱淵謙錠著 中央公論社

明治五年のできごと(ここでの表記は旧暦を用いる)

1月 新貨採用はじまる(100文が1銭に。条例制定は明治四年)
2月 東京日日新聞、条野伝平らによって創刊
3月 東京最初の博覧会である「湯島聖堂博覧会」が開かれる
4月 高橋由一、新吉原稲本楼の花魁・小稲を油画にて描く、と報
5月 鉄道(蒸気機関車)、品川-横浜間で仮営業
9月 鉄道、新橋-横浜間が開通
10月 富岡製糸場、創業開始
娼妓解放令
12月 太陽暦(新暦)への移行

画像:『内国勧業博覧会 開場御式の図』(揚州周延画 明治十年)

Filed Under 【美術事始】

★著者: 平野 太一
★自己紹介:平野 太一(ひらの たいち) 1973年生まれ 横浜市出身 彫刻家・美術作家 幼稚園美術教室講師 法政大学文学部日本文学科中退 多摩美術大学彫刻科卒業 幕末から明治中期までの日本の歴史、人物にとても興味があり時間がある時は、いつも調べています。資料や史料が好きで小説はほとんど読みません。 古書や錦絵に埋もれるような生活をしています。 国会図書館や公文書館のデータベースが、今はインターネットから見られるので、大変ありがたいです。
★記事データ:掲載日 2007/4/8 at 1:26:48
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